中学社会・歴史・開国と近代日本の歩み・No.70

日露戦争

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解説

日清戦争のあと、日本と対立を深めていったのは大国ロシアでした。日本はイギリスと同盟を結び、1904年にロシアとの戦争を始めます。戦いには勝ったのに、戦争が終わると東京で国民の暴動が起きます。その理由は、講和の条約の中身にありました。

ロシアが遼東半島の旅順・大連を借りる

前の単元で見たように、日本は日清戦争のあとの下関条約で遼東半島をゆずり受けました。ところが、ロシアがドイツ・フランスといっしょに「清に返すように」と求めてきます。これが三国干渉で、日本は遼東半島を手放しました。

そのあと、日本にかわってロシアが、遼東半島の先にある港の旅順と、町の大連を借りて、要塞を築きます。ほかの国の土地の一部を、期間を決めて借りることを租借といいます。日本が手放した場所をロシアが借りたことで、日本とロシアの対立が強まっていきました。

1義和団事件と日英同盟(1902年) ロシアに対抗してイギリスと結ぶ

日清戦争のあと、清(中国)では、義和団が生活に苦しむ農民を集めて、外国をしりぞけようとする運動を起こしました。1900年、義和団は外国人やキリスト教の教会をおそい、北京(今の中国)にある各国の公使館の区域を取り囲んで攻撃します。これが義和団事件です。

この事件は、日本やロシアをふくむ8か国の連合軍が出動してしずめました。日本はイギリスの求めに応じて大軍を送り、イギリスは日本の軍事力に注目するようになります。

問題はそのあとでした。ロシアは、義和団をしずめることを口実に満州(今の中国の東北部)を占領し、事件が終わっても兵を引きあげなかったのです。これが日露戦争の原因の一つになりました。満州と朝鮮半島を北からねらうロシアと、東から進もうとする日本の対立は、ますますはげしくなっていきます。

そこで日本は、1902年、イギリスと日英同盟を結びました。ロシアの東アジア進出に対抗するためです。イギリスの側も、ロシアの東アジア進出をおさえようとしていました。日本はこの同盟で、ロシアと戦うことになったときのお金の助けをイギリスに期待しています。

日本はイギリスを後ろだてにして日露戦争を戦いますが、イギリスはいっしょには戦っていません。同盟を結んだ国と、実際に戦った国を分けて覚えます。

日英同盟を結んだときの外務大臣は小村寿太郎です。条約改正の単元で、関税自主権を回復したときの外務大臣として出てきた人物で、このあとのポーツマス条約にも登場します。

2日露戦争(1904年) ロシアとの戦争と国内の声

ロシアとの対立がはげしくなると、日本の国内では、戦争をするべきだという主戦論が圧倒的に多くなりました。その中で、戦争をするべきではないという非戦論を唱えた人たちもいます。

内村鑑三はキリスト教の立場から、幸徳秋水や堺利彦は社会主義の立場から、非戦論を唱えました。3人は万朝報という新聞に加わっていましたが、この新聞が開戦論に変わると会社をやめます。幸徳と堺は平民新聞という新聞をつくり、反戦を主張し続けました。

そして1904年、日露戦争が始まります。満州と韓国をめぐる、日本とロシアの戦争です。ここでいう韓国は朝鮮のことで、朝鮮は1897年に国の名前を韓国と改めていました。日清戦争が1894年だったので、そのちょうど10年後にあたります。

日本軍は、旅順の港などにいたロシアの艦隊を攻撃し、そのあと宣戦布告をしました。新しく興った国である日本が、大国ロシアにいどんだ戦争として、この戦いは世界の注目を集めます。

陸の戦いでは、ロシアが要塞を築いていた旅順に、日本は総攻撃をくり返しました。多くの犠牲を出して、ようやく占領します。続いて奉天(今の中国の瀋陽)でも戦い、奉天を占領しましたが、このときには兵や弾薬を使い果たしていました。

海の戦いの相手は、バルト海に根拠地を置いたロシアの主力の艦隊、バルチック艦隊です。日本海の対馬(今の長崎県)の沖で起きたのが日本海海戦です。東郷平八郎が率いる連合艦隊が、バルチック艦隊に壊滅的な打撃をあたえました。

こうして日本は、旅順や奉天の戦い、日本海海戦などで勝利しました。しかし、戦争を続ける力は限界に達していたのです。戦争の費用は、大がかりな増税と、国内や外国からの借金(国債)にたよっていました。その負担は、国の力の限度をこえるほどでした。ロシアでも国内で革命が起き、戦争を終わらせることを望みます。どちらの国も、国内の事情で戦争を続けにくくなっていました。

戦争中の国内の声として、もう1人覚えたいのが歌人の与謝野晶子です。与謝野晶子は、日露戦争に出征した弟の無事を祈って、「君死にたまふことなかれ」という長い詩を発表しました。戦争が始まった年に発表されたこの詩は、反戦詩として知られています。

3ポーツマス条約と日比谷焼き打ち事件 アメリカのなかだちで結んだ講和

戦争を続けにくくなった日本とロシアは、アメリカ大統領セオドア・ローズベルトのなかだちで、講和することになりました。講和とは、戦争をやめて平和を取りもどすことです。

1905年、アメリカの東部の港町ポーツマスで、ポーツマス条約が結ばれます。日本の代表、つまり全権としてこの条約を結んだのは、外務大臣の小村寿太郎でした。条約で決まったことは、次の3つです。

  • ロシアは、韓国での日本の優越権(政治・経済・軍事の上の利益)を認める
  • ロシアは、旅順・大連の租借権と、長春より南の鉄道の利権を日本にゆずる
  • ロシアは、樺太(サハリン)の南半分を日本にゆずる

旅順・大連は、あくまで借りる権利(租借権)です。領土としてゆずり受けたのは、樺太の南半分だけでした。

そして、ポーツマス条約では賠償金がありませんでした。日本は賠償金の要求をあきらめて、条約を結んだのです。前の単元の日清戦争では、下関条約で清が日本に賠償金を払っていました。下関条約は賠償金あり、ポーツマス条約は賠償金なし。この2つは比べて問われることが多い組み合わせです。

増税などで重い負担を負っていた国民は、賠償金のない条約にがっかりしました。条約が結ばれた日に、東京の日比谷公園(今の東京都千代田区)で、講和条約に反対する大会が開かれます。そのあと民衆が警察署や交番などを焼き打ちしました。これが日比谷焼き打ち事件です。暴動は次の日も続き、政府は戒厳令を出して軍隊を出動させました。

まとめ ロシアとの対立から日比谷焼き打ち事件まで

この単元の流れを一本の線でつなぐと、こうなります。

三国干渉のあと、ロシアが旅順・大連を租借 → 義和団事件、ロシアが満州を占領 → 1902年 日英同盟 → 1904年 日露戦争(主戦論と非戦論・与謝野晶子) → ポーツマス条約(賠償金なし) → 日比谷焼き打ち事件

日露戦争での日本の勝利は、アジアの民族運動が盛り上がるきっかけになりました。いっぽうで戦争のあと、日本は韓国を保護国にし、南満州を勢力範囲にしていきます。この続きが、次の単元「韓国併合と辛亥革命」です。

年表

この単元でテストに出る年号は、1902年と1904年の2つです。義和団事件はその前、ポーツマス条約と日比谷焼き打ち事件は戦争の終わりのことなので、順番で押さえておくと迷いません。

年

出来事

1902

日本がイギリスと日英同盟を結ぶ

1904

日本とロシアのあいだで日露戦争が始まる

用語のまとめ

用語

種類

意味

三国干渉

できごと

ロシア・ドイツ・フランスが、日本に遼東半島を清に返すよう求めたこと

租借

ことがら

ほかの国の土地の一部を、期間を決めて借りること

旅順

地名

遼東半島の先にある港。ロシアが租借して要塞を築いた

義和団事件

事件

清で義和団が外国人やキリスト教の教会をおそい、北京の各国の公使館の区域を囲んだ事件。8か国の連合軍がしずめた

満州

地域

今の中国の東北部。義和団事件をしずめることを口実にロシアが占領し、事件のあとも兵を引かなかった

日英同盟

同盟

1902年、ロシアの東アジア進出に対抗するため、日本とイギリスが結んだ同盟

主戦論

主張

戦争をするべきだという主張。日露戦争の前の国内では、こちらが圧倒的に多かった

非戦論

主張

戦争をするべきではないという主張

内村鑑三

人物

キリスト教の立場から非戦論を唱えた

幸徳秋水

人物

堺利彦とともに、社会主義の立場から非戦論を唱えた

日露戦争

戦争

1904年、満州と韓国をめぐって日本とロシアのあいだで始まった戦争

奉天

地名

今の中国の瀋陽。日本が占領したが、兵や弾薬を使い果たした

日本海海戦

戦い

日本海の対馬の沖での海の戦い。連合艦隊がバルチック艦隊に壊滅的な打撃をあたえた

東郷平八郎

人物

日本海海戦で連合艦隊を率いた司令長官

バルチック艦隊

艦隊

バルト海に根拠地を置いた、ロシアの主力の艦隊

与謝野晶子

人物

歌人。日露戦争に出征した弟の無事を祈る詩「君死にたまふことなかれ」を発表した

講和

ことがら

戦争をやめて、平和を取りもどすこと

ポーツマス条約

条約

アメリカ大統領のなかだちで、アメリカのポーツマスで日本とロシアが結んだ講和条約。賠償金はなかった

小村寿太郎

人物

ポーツマス条約を結んだ日本の全権。日英同盟を結んだときの外務大臣

優越権

権利

韓国での政治・経済・軍事の上の利益。ポーツマス条約でロシアが日本に認めた

樺太の南半分

領土

ポーツマス条約でロシアが日本にゆずった、樺太(サハリン)の南半分

賠償金

お金

戦争に負けた側が相手に払うお金。ポーツマス条約では、なかった

日比谷焼き打ち事件

事件

賠償金のない条約に不満をもった民衆が、日比谷公園の大会のあと、警察署や交番などを焼き打ちした事件

よくある間違い

ポーツマス条約では、賠償金はありませんでした。 賠償金があったのは日清戦争の下関条約です。2つの条約を並べて「賠償金あり・なし」で問われます。

旅順・大連でゆずられたのは、借りる権利(租借権)です。 領土としてゆずられたのは樺太(サハリン)の南半分だけで、「南半分」までを答えにします。

日英同盟を結んだイギリスは、後ろだてです。 日本はイギリスを後ろだてにしてロシアと戦い、戦ったのは日本とロシアの2国でした。

非戦論を唱えたのは、内村鑑三や幸徳秋水・堺利彦です。 与謝野晶子は、出征した弟の無事を祈る詩を発表した人です。何をした人なのかで区別して書けるようにします。

内村鑑三はキリスト教、幸徳秋水と堺利彦は社会主義の立場です。 人物と立場の組み合わせを入れかえた選択肢がひっかけになります。

日本は個々の戦いには勝利しましたが、戦争を続ける力は限界でした。 ロシアも国内で革命が起き、どちらも国内の事情で講和しました。講和をなかだちしたのはアメリカ大統領です。

日比谷焼き打ち事件の原因は、賠償金がなかったことへの不満です。 「賠償金なし → 国民の不満 → 日比谷焼き打ち事件」の原因と結果は、記述問題でもよく問われます。

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重要語句 義和団事件、日英同盟、ポーツマス条約、日比谷焼き打ち事件、与謝野晶子

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