中学社会・歴史・開国と近代日本の歩み・No.55

イギリス・アメリカの市民革命と啓蒙思想

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解説

日本が江戸時代だったころ、イギリスとアメリカでは、国王が思いどおりに政治をするしくみが議会や市民の力でくずされていきました。今の日本の国会や三権分立、基本的人権のもとになった考え方が出てくるのもこの時代です。イギリスでは2つの革命で議会の力が強まり、アメリカでは13の植民地が独立して国王のいない国をつくりました。

革命の前のヨーロッパ 絶対王政と市民革命

16世紀から17世紀のヨーロッパでは、国王が強い力をもち、議会などにしばられずに政治をしていました。これを絶対王政といいます。国王の力は神から授けられたものだから逆らってはいけない、という王権神授説が、そのしくみを支えていました。

こうした政治に、議会や市民が反発していきます。市民が中心になって古い政治のしくみを倒し、新しいしくみをつくった革命を市民革命といいます。歴史の時代区分でいうと、ここから近代に入ります。

1イギリスの2つの革命 ピューリタン革命と名誉革命(1688年)・権利章典(1689年)

17世紀のイギリスでは、国王が議会の同意なしに税をとったり、議会を長いあいだ開かなかったりしていました。議会を無視した政治に議会側は反発し、1642年、国王の軍と議会の軍の内戦が始まります。

議会の側には、ピューリタン(清教徒)と呼ばれる人たちが多くいました。宗教改革で分かれたプロテスタントの一派です。議会の軍を率いたクロムウェルの活躍で議会側が勝ち、1649年には国王を処刑して、国王のいない共和政にしました。この一連の革命をピューリタン革命といいます。清教徒革命と書かれることもありますが、同じものです。

ところが、国王のいない国は長く続きませんでした。クロムウェルは議会を解散して独裁を行い、国民の不満が高まります。クロムウェルが亡くなると共和政はくずれ、処刑された国王の子が国王になりました。これを王政復古といいます。

国王が戻ったあとも、議会との対立は続きました。そのあとの国王、ジェームズ2世は、カトリックを復活させようとして、議会を無視した政治を行います。そこで1688年、議会はこの国王を追い出し、国王の娘とその夫をオランダから新しい国王として迎えました。夫が軍を率いて上陸してくると、ジェームズ2世は戦わずにフランスへにげています。大きな戦いをせずに国王を代えられたので、この革命は1688年の名誉革命と呼ばれます。同じころの日本は、5代将軍綱吉の時代でした。

次の年、議会は国王の力を制限する宣言を出し、新しい国王はそれを認めて国王になりました。議会はこの宣言を法律として定めます。これが1689年の権利章典です。議会の同意なしに税をとってはいけない、法律の効力を止めてはいけない、戦争のないときに軍隊を置いてはいけない、と国王の力をしばりました。議会での発言の自由や選挙の自由も認められ、国王よりも議会の力が上だと決まったわけです。

こうしてイギリスでは、国王はいるものの、国王も法と議会に従って政治をする立憲君主制ができました。議会が中心になって政治を進める議会政治も確立し、このイギリスの議会政治が、今の議会制度のもとになったとされています。

2つの革命のちがいを表にすると、こうなります。

革命

中心になった人・相手

どう進んだか

結果

ピューリタン革命

クロムウェルが議会の軍を率いた

国王の軍と議会の軍の内戦。国王を処刑した

国王のいない共和政。のちに王政復古で国王が戻る

名誉革命

議会がジェームズ2世を追い出した

国王の娘とその夫をオランダから迎え、大きな戦いなしで国王を交代

権利章典が定められ、立憲君主制と議会政治が確立

2国王の権威を見直す考え 啓蒙思想(ロック・モンテスキュー・ルソー)

17世紀の終わりから18世紀のヨーロッパでは、新しい考え方が広まりました。人間の理性、つまり考える力を大事にして、古い思いこみや、教会・国王の権威を見直そうという考え方です。権威とは、みんなを従わせる力のことです。これを啓蒙思想といい、テストでは3人の思想家がよく出ます。

1人目は、イギリスのロックです。ロックは『統治二論』という本で、人は生まれながらに生命・自由・財産の権利をもち、政府はその権利を守るために人々の合意でつくられたものだと考えました。だから、政府が人々の権利を破るなら、人々は抵抗して政府を変えてよい。これを抵抗権といいます。この本が出たのは名誉革命のあとで、ロックは名誉革命を正しいものだと説明しました。

2人目は、フランスのモンテスキューです。『法の精神』という本で、国の力を、法律をつくる立法、法律にもとづいて政治を行う行政、裁判をする司法の3つに分けることを説きました。3つを別々の機関にまかせ、おたがいにおさえ合わせて、1か所に力が集まりすぎないようにするしくみです。これを三権分立といいます。今の日本でいえば、立法が国会、行政が内閣、司法が裁判所にあたり、公民の授業でもう一度出てきます。

3人目はルソーです。スイスのジュネーブで生まれ、フランスで活躍しました。ルソーは『社会契約論』という本で、国の政治を最終的に決める力(主権)は人民にあると説きました。これを人民主権といい、今の日本の国民主権も、この考え方の流れをくんでいます。

人物

国

説いたこと

本

ロック

イギリス

抵抗権

統治二論

モンテスキュー

フランス

三権分立

法の精神

ルソー

フランス

人民主権

社会契約論

人物と説いたことの組み合わせは、そのまま選択問題になります。順番にも注意してください。ロックの考えが出てきたのはイギリスの2つの革命よりあとで、モンテスキューとルソーはさらにそのあとの18世紀の人です。3人の考えは、このあとのアメリカの独立や、次の回で見るフランス革命に影響をあたえたといわれています。

313の植民地が国になる アメリカ独立戦争と独立宣言(1776年)

北アメリカの東海岸には、イギリスから移り住んだ人たちがつくった13の植民地がありました。植民地の人々は、ある程度は自分たちで政治を行っていました。

ところが、イギリスはフランスとの戦争でお金が苦しくなり、植民地に次々と新しい税をかけていきます。植民地の人々が反対したのは、税が重かったからだけではありません。イギリスの議会には植民地の代表がいなかったので、自分たちの代表がいない議会で税を決めるのはおかしい、と訴えたのです。これを代表なくして課税なしといい、記述問題では反対の理由として書かせることがあります。

対立が深まるきっかけになったのがボストン茶会事件です。イギリスが東インド会社に、植民地で茶をひとりじめして売ることを認めると、反対したボストン(今のアメリカ合衆国東部)の人々が東インド会社の船におし入り、積み荷の茶を海に投げ捨てました。イギリスはボストンの港を閉じ、対立はいっそう激しくなります。

1775年、植民地の人々とイギリス軍の戦いが起こり、アメリカ独立戦争が始まりました。植民地の代表たちは、ワシントンを総司令官にします。戦争のさなか、植民地の代表たちは1776年に独立宣言を出しました。すべての人は平等につくられ、生命・自由・幸福を求める権利をもつ。政府はその権利を守るためにあり、守らない政府は変えたり、なくしたりしてよい。そう書かれた独立宣言には、ロックの考えが生かされています。ただし、このときの「平等」には、奴隷にされた人々などは含まれていませんでした。同じころの日本は、田沼意次が政治を動かしていた時期です。

植民地の側ははじめ苦戦しましたが、フランスなどの支援も受けて有利になり、イギリスに勝ちました。イギリスが独立を認めたのは、独立宣言のその7年後です。

独立した13の植民地は州としてまとまり、アメリカ合衆国になりました。合衆国憲法には三権分立のしくみが取り入れられ、国王の代わりに人民が選ぶ大統領が置かれます。初代大統領はワシントンです。こうして、国王のいない共和政の国が生まれました。

まとめ イギリスとアメリカの流れを一本の線で

イギリスとアメリカの流れを、国ごとに一本の線でつなぐと、こうなります。

イギリス: ピューリタン革命(クロムウェル・共和政) → 王政復古 → 1688年 名誉革命 → 1689年 権利章典 → 立憲君主制・議会政治

アメリカ: 13の植民地 → 代表なくして課税なし → ボストン茶会事件 → アメリカ独立戦争 → 1776年 独立宣言 → アメリカ合衆国(三権分立・大統領)

この2本の線とは別に、ロックの抵抗権、モンテスキューの三権分立、ルソーの人民主権という啓蒙思想の考えがありました。独立宣言には、このうちロックの考えが生かされています。イギリスでは議会が中心の政治が、アメリカでは国王のいない共和政の国が生まれました。次の回の舞台は、こうした考えが広がったフランスです。

年表

年

出来事

ポイント

1688年

議会が国王を追い出し、国王の娘とその夫をオランダから迎える(名誉革命)

イギリスの2つの革命

1689年

議会が出した宣言を新しい国王が認め、議会が権利章典として定める

イギリスの2つの革命

1776年

アメリカ独立戦争のさなか、13の植民地の代表たちが独立宣言を出す

アメリカの独立

用語のまとめ

用語

種類

意味

絶対王政

しくみ

国王が強い力をもち、議会などにしばられずに政治をするしくみ

王権神授説

考え

国王の力は神から授けられたものだという考え。絶対王政を支えた

市民革命

出来事

市民が中心になって古い政治のしくみを倒し、新しいしくみをつくった革命

ピューリタン

人々

プロテスタントの一派。清教徒ともいう。議会の側に多かった

ピューリタン革命

出来事

国王と議会の内戦から、国王を処刑して共和政にしたイギリスの革命。清教徒革命ともいう

クロムウェル

人物

ピューリタン革命で議会の軍を率いた人。のちに独裁を行った

共和政

しくみ

国王のいない政治のしくみ

王政復古

出来事

クロムウェルの死後に共和政がくずれ、処刑された国王の子が国王になったこと

ジェームズ2世

人物

カトリックを復活させようとして議会を無視し、名誉革命で追い出された国王

名誉革命

出来事

1688年、議会が国王を追い出し、大きな戦いをせずに国王を代えたイギリスの革命

権利章典

文書

1689年、議会が出した宣言を新しい国王が認め、議会が法律として定めたもの。国王の力をしばった

立憲君主制

しくみ

国王はいるが、国王も法と議会に従って政治をするしくみ

議会政治

しくみ

議会が中心になって政治を進めるしくみ。名誉革命のあとのイギリスで確立した

啓蒙思想

考え

人間の理性を大事にして、古い思いこみや教会・国王の権威を見直そうとする考え

ロック

人物

イギリスの思想家。『統治二論』で抵抗権を説いた

抵抗権

考え

政府が人々の権利を破るなら、人々は抵抗して政府を変えてよいという考え

モンテスキュー

人物

フランスの思想家。『法の精神』で三権分立を説いた

三権分立

しくみ

国の力を立法・行政・司法に分け、別々の機関におさえ合わせるしくみ

ルソー

人物

スイス生まれでフランスで活躍した思想家。『社会契約論』で人民主権を説いた

人民主権

考え

国の政治を最終的に決める力(主権)は人民にあるという考え

13の植民地

土地

イギリスから移り住んだ人たちが北アメリカの東海岸につくった13の植民地

代表なくして課税なし

主張

自分たちの代表がいないイギリスの議会で税を決めるのはおかしい、という植民地の主張

ボストン茶会事件

事件

ボストンの人々が東インド会社の船の茶を海に投げ捨てた事件。対立が深まるきっかけになった

アメリカ独立戦争

戦争

13の植民地がイギリスからの独立を求めて戦った戦争。総司令官はワシントン

独立宣言

文書

1776年、植民地の代表たちが出した宣言。人は平等で、生命・自由・幸福を求める権利をもつとした

ワシントン

人物

アメリカ独立戦争の総司令官。アメリカ合衆国の初代大統領

合衆国憲法

文書

アメリカ合衆国の憲法。三権分立のしくみを取り入れ、人民が選ぶ大統領を置いた

よくある間違い

ピューリタン革命と名誉革命は、進み方で見分けます。 ピューリタン革命は内戦と国王の処刑、名誉革命は大きな戦いなしでの国王の交代です。クロムウェルが出てくるのはピューリタン革命のほうです。

王政復古で戻った国王と、名誉革命で追い出された国王は別の人です。 戻ったのは処刑された国王の子で、追い出されたのはそのあとの国王ジェームズ2世です。

権利章典を法律として定めたのは議会です。 議会が出した宣言を新しい国王が認め、議会がそれを権利章典にしました。「議会が国王の力をしばった」という向きで答えます。

思想家と説いたことの組み合わせを入れかえない。 抵抗権はロック、三権分立はモンテスキュー、人民主権はルソーです。国はロックがイギリス、ほかの2人がフランスです。

独立宣言に生かされたのは、ロックの考えです。 「政府が権利を守らないなら変えてよい」という部分が、ロックの抵抗権と同じ考え方になっています。

1776年は、独立を宣言した年です。 戦争はそのあとも続き、イギリスが独立を認めたのは7年後でした。年号を問われたら、1776年は独立宣言と結びつけます。

ボストン茶会事件の「茶会」は、事件の名前です。 東インド会社の船におし入り、積み荷の茶を海に投げ捨てた事件で、お茶を飲む会のことではありません。

独立宣言の「平等」は、当時の全員を指していたわけではありません。 奴隷にされた人々などは含まれていませんでした。宣言の言葉と、当時の実際とは分けて考えてください。

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全体の流れを確かめたいときはアニメーション編を、革命が起きた理由までくわしく知りたいときは詳細解説編の動画を見てください。

重要語句 名誉革命、権利章典、ロック、モンテスキュー、独立宣言

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