中学社会・歴史・開国と近代日本の歩み・No.56

フランス革命と国民国家

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解説

1789年にフランスで始まった革命は、「人は生まれながらに自由で平等だ」という考え方を、国の宣言として示しました。その考え方は、ナポレオンの戦争とともにヨーロッパ中へ広がっていきます。広がった先で人々が「自分たちの国」を意識しはじめたところから、国民国家づくりの話が始まります。

革命の前のフランス 絶対王政と3つの身分

前回の単元では、イギリスやアメリカの市民革命で、国王が好き勝手にできない政治が形になったことを見ました。その考え方を支えたロック、モンテスキュー、ルソーたちの啓蒙思想は、フランスでも広まっていて、アメリカの独立宣言も知られていました。

ところが当のフランスは、まだ絶対王政の国でした。国王に権力が集まる政治のことで、このときの国王はルイ16世です。人々は聖職者・貴族・平民の3つの身分に分けられていました。聖職者と貴族は税を免除されるなどの特権をもっていた一方で、人口の大部分をしめる平民は政治に参加できませんでした。上の2つの身分を平民が背負っている絵は、教科書でもよく見かけます。

そこへ国のお金の問題が重なります。借金がふくらんだため、ルイ16世は税を増やそうとして、長いあいだ開かれていなかった身分ごとの議会を開きました。すると平民の代表は、自分たちこそ国民の代表だと言って、自分たちで新しい議会をつくります。

1フランス革命と人権宣言(1789年・パリの民衆と議会)

国王が軍隊を集めると、これに反発したパリ(今のフランスの首都)の民衆が動きます。1789年、民衆は武器を求めてバスティーユ牢獄を襲いました。高い石の壁と塔に囲まれたこの牢獄は、国王の力の象徴だったのです。これが1789年のフランス革命の始まりです。日本では、ちょうど寛政の改革が行われていたころにあたります。

同じ年、議会は人権宣言を出しました。人は生まれながらに自由で平等な権利をもつこと、国の主権は国民にあることなどを示した宣言です。主権が国民にあるという考え方を国民主権といいます。国のことを最終的に決める力が、国王ではなく国民にある、という意味です。

宣言には、言論の自由、権力の分立、財産をもつ権利なども書かれていました。権力の分立は、前回学んだモンテスキューの考え方です。人権宣言はアメリカの独立宣言や啓蒙思想の影響を受けてつくられ、今の基本的人権の考え方のもとになりました。公民の授業でも、もう一度出てくる宣言です。

ただ、革命のあとのフランスは、すぐには落ち着きませんでした。革命が自分の国に広がるのをおそれた周りの国々が口を出してきて、戦争が始まります。国内でも、考え方のちがう人たちの対立が激しくなっていきました。

やがて王政は廃止され、国王のいない政治である共和政になり、ルイ16世は処刑されます。そのあとも、対立する人々が次々に処刑される混乱が続きました。自由と平等をかかげた革命の中にも、多くの対立と犠牲があったのです。

2ナポレオン 法典をつくり皇帝に、そしてヨーロッパの征服

混乱をおさめたのは、周りの国々との戦争で活躍した軍人のナポレオンでした。ナポレオンは力で政府を倒して権力をにぎり、フランス革命はここで終わったとされています。

ナポレオンが残したもので必ず覚えたいのがナポレオン法典です。民法典とよばれる法律で、法の前の平等、個人の自由、財産をもつ権利など、革命が目指したことを法律の形で定めました。のちに、各国の民法の手本にもなっています。

法典をつくったあと、ナポレオンは国民投票をへて皇帝になりました。国王を倒した革命のあとに、今度は皇帝が生まれたことになります。

ナポレオンの軍は戦争に次々と勝ち、ヨーロッパの大部分を征服しました。征服された地域には、自由や平等という革命の考え方や、ナポレオン法典が広がっていきます。一方で支配された人々のあいだには、外国の支配はいやだ、自分たちの国を取り戻そう、という意識が高まりました。

やがてナポレオンは大軍でロシアに攻めこみます。このロシア遠征で、寒さと追撃によって大軍を失いました。そのあと各国が力を合わせてナポレオンを破り、最後の戦いにも敗れたナポレオンは、遠い島に流されてそこで亡くなります。自分が広めた考え方が、逆に自分を倒す力にもなったわけです。

ナポレオンには2つの面があります。混乱をおさめ、法典で革命の成果を残したこと。その一方で、皇帝になり、戦争でヨーロッパを支配したこと。記述問題で問われるのは、この両面です。

3国民国家づくり ナショナリズムとドイツ統一(ビスマルク)・南北戦争(リンカン)

ナポレオンに支配された地域で高まった、自分たちは同じ国民(民族)だ、自分たちの国は自分たちでまとめて守ろう、という考え方をナショナリズムといいます。そして、国民が主権をもち、一つにまとまってつくる国を国民国家といいます。19世紀のヨーロッパでは、この国民国家が近代の国の形になっていきました。イギリスやフランスは市民革命をへて国民国家をつくりましたが、ドイツの進み方はちがいます。

このころのドイツは一つの国ではなく、小さな国々に分かれていました。その中心になったのが、今のドイツの北部を中心とするプロイセンです。プロイセンの首相ビスマルクは、議会の反対をおさえて軍備を強め、周りの国との戦争に勝っていきます。

そして1871年、プロイセンを中心にドイツ統一が実現し、ドイツ帝国ができました。皇帝になったのはプロイセンの王で、ビスマルクは宰相として国を動かしていきます。市民革命が起こらないまま、政府が中心になって近代の国をつくったところが、フランスとのちがいです。

海の向こうのアメリカでは、ドイツ統一より少し前の1860年代の前半に、国が二つに割れる戦争が起きていました。日本では江戸時代の終わりごろです。アメリカの北部では商工業が発達し、南部では綿花などの大農園で奴隷が働かされていました。この北部と南部が、奴隷制と貿易のあり方をめぐって対立します。南部は自由貿易を、北部は自分たちの工業を守る保護貿易を求めていました。

そんな中で、奴隷制が広がることに反対するリンカンが大統領に選ばれると、奴隷制を続けたい南部の州が合衆国から離れていきました。こうして1861年に始まったのが南北戦争です。リンカンが第一に考えていたのは、国が二つに分かれるのを防ぐことでした。

戦争の途中で、リンカンは南部の州の奴隷を自由にするという奴隷解放宣言を出しました。また、戦場の跡の式典での演説で、「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉を残しています。民主政治の考え方を表す言葉として、公民でも出てきます。戦争は北部が勝ち、国の分裂は避けられました。奴隷制が廃止されたのは、戦争のあとです。

ドイツとアメリカの国づくりは、中心になった人物と組にして区別します。

国

中心になった人物

何が起きたか

ドイツ

ビスマルク(プロイセンの首相)

小さな国々に分かれていたドイツがプロイセンを中心に統一され、ドイツ帝国ができた

アメリカ

リンカン(北部の大統領)

奴隷制と貿易のあり方をめぐる南北戦争で北部が勝ち、国の分裂が避けられた。戦争のあと奴隷制は廃止された

まとめ 年の順に一本の線でつなぐ

この単元ではドイツを先に、アメリカをあとに見ましたが、年はアメリカの南北戦争のほうが先です。年の順に一本の線でつなぐと、こうなります。

絶対王政と3つの身分 → 1789年 フランス革命が始まり、人権宣言が出される → 王政の廃止と混乱 → ナポレオンが法典をつくり、皇帝になる → 征服でヨーロッパに革命の考え方が広がる → 各地でナショナリズムが高まる → 国民国家づくり(アメリカの南北戦争、ドイツ統一) → 次の単元: 産業革命

フランス革命が示した自由と平等の考え方は、ナポレオンの征服で広がり、征服された側には国民としてまとまろうとする意識を生みました。こうしてまとまった国々が力をつけていく、その土台になったのがイギリスで始まった産業革命で、次の単元のテーマです。

年表

年

出来事

ポイント

1789年

フランス革命が始まり、同じ年に人権宣言が出される

フランス革命と人権宣言

この単元で年まで覚えるのは1789年です。フランス革命と人権宣言は同じ年なので、2つを組にして覚えてください。

用語のまとめ

用語

種類

意味

絶対王政

政治のしくみ

国王に権力が集まる政治。革命前のフランスはこの形だった

ルイ16世

人物

革命のときのフランスの国王。王政が廃止されたあと処刑された

身分(聖職者・貴族・平民)

社会のしくみ

革命前のフランスの3つの身分。聖職者と貴族は税を免除されるなどの特権をもっていた

バスティーユ牢獄

建物

パリにあった、国王の力の象徴だった牢獄。1789年、武器を求めた民衆に襲われた

フランス革命

出来事

1789年、パリの民衆がバスティーユ牢獄を襲ったことから始まった革命

人権宣言

宣言

1789年に議会が出した宣言。人は生まれながらに自由で平等な権利をもつこと、国の主権は国民にあることなどを示した

国民主権

考え方

国のことを最終的に決める力が、国王ではなく国民にあるという考え方

基本的人権

権利

今の人権の考え方。人権宣言がそのもとになった

共和政

政治のしくみ

国王のいない政治。フランスでは王政が廃止されてこの形になった

ナポレオン

人物

混乱をおさめて権力をにぎった軍人。法典をつくり、のちに皇帝になってヨーロッパの大部分を征服した

ナポレオン法典

法律

ナポレオンがつくった民法典。法の前の平等など、革命の成果を法律の形で定めた

ロシア遠征

出来事

ナポレオンがロシアに攻めこんだ遠征。寒さと追撃で大軍を失った

ナショナリズム

考え方

国民や民族としてまとまり、自分たちの国をつくったり守ったりしようとする考え方

国民国家

国の形

国民が主権をもち、一つにまとまってつくる国

プロイセン

国

ドイツ統一の中心になった国。今のドイツの北部が中心

ビスマルク

人物

プロイセンの首相。軍備を強めて戦争に勝ち、ドイツを統一した。統一後は宰相として国を動かした

ドイツ統一

出来事

プロイセンを中心にドイツの国々がまとまり、ドイツ帝国ができたこと

ドイツ帝国

国

ドイツ統一でできた国。皇帝の位についたのはプロイセンの王

南北戦争

戦争

アメリカの北部と南部が、奴隷制と貿易のあり方をめぐって戦った戦争。北部が勝った

リンカン

人物

南北戦争のときの北部の大統領。奴隷解放宣言を出した

奴隷解放宣言

宣言

南北戦争の途中で、リンカンが南部の州の奴隷を自由にすると宣言したもの

人民の、人民による、人民のための政治

言葉

リンカンの演説の言葉。民主政治の考え方を表す

よくある間違い

1789年は、フランス革命が「始まった」年です。 革命はそのあと10年ほど続き、ナポレオンが権力をにぎったところで終わったとされます。年を答えるときは「1789年に始まった」と覚えておくと迷いません。

フランス革命と人権宣言は、どちらも1789年の出来事です。 革命が始まったのと同じ年に、議会が人権宣言を出しました。年表の問題で2つを別の年に書くまちがいが出やすいところです。

ナポレオン法典は、皇帝になる前につくられました。 法典が先で、皇帝があと。並べかえ問題では、この順番が問われます。

ドイツ帝国の皇帝の位についたのは、プロイセンの王です。 ビスマルクはプロイセンの首相で、統一後は宰相として国を動かしました。人物と地位の組み合わせがひっかけになります。

ドイツは、市民革命をへずに統一されました。 フランスとのちがいを聞かれたら、「政府が中心になって近代の国をつくった」と書けば答えになります。

南北戦争の原因は、奴隷制だけではありません。 貿易のあり方をめぐる北部と南部の対立も原因でした。記述では「奴隷制や貿易のあり方をめぐって」と2つを書きます。

奴隷解放宣言は戦争の途中、奴隷制の廃止は戦争のあとです。 宣言の対象は、合衆国から離れた南部の州の奴隷でした。

話の順番と年の順番は、ちがいます。 南北戦争は1861年から、ドイツ統一は1871年なので、年は南北戦争のほうが先です。

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流れを短くつかみたいときはアニメーション編を、理由までくわしく知りたいときは詳細解説編の動画を見てください。

重要語句 人権宣言、ナポレオン、ドイツ統一、ビスマルク、リンカン

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