解説
寛政の改革のあとも、幕府のお金は苦しいままでした。そこへ大きなききんが起こり、海の外からは外国の船が近づいてきます。国の中と海の外、両方の危機にぶつかった幕府は、老中の水野忠邦のもとで3回目の大きな改革にのり出しました。
改革の前の世の中 天保のききんと一揆・打ちこわし
1830年代、夏の寒さや長雨、洪水で、ひどい凶作が何年も続きました。これを天保のききんといいます。米の値段は大きく上がり、うえ死にや病気で亡くなる人が各地で出ました。
苦しくなった人々は、あちこちで動き出します。村では、百姓が集まって領主にうったえる百姓一揆が起こりました。町では、人々が米屋などをおそう打ちこわしが起こっています。米の値下げや救いを求める動きが、全国に広がっていきました。
海の外にも、気になる動きがありました。幕府は前の時代の1825年に異国船打払令を出し、清とオランダ以外の外国船は打ち払う、つまり大砲を撃って追い払うと決めていました。この命令が、このあと大きな事件を引き起こします。
1内と外の危機 大塩平八郎の乱とモリソン号事件(1837年)
ききんで人々が苦しんでいたころ、大阪、今の大阪府大阪市で一人の学者が立ち上がります。大塩平八郎です。大塩は大阪の町奉行所で与力という役人をしていましたが、このときにはもう役人をやめていました。陽明学という学問を教える学者としても知られた人です。陽明学は儒学の一派で、知ったことは行動に移すべきだと説きました。
大塩は奉行所に、苦しむ人々を救うよう願い出ます。しかし聞き入れられなかったので、自分の本を売り、そのお金を人々に分けました。そして1837年、「救民」、つまり民を救うという旗をかかげ、門人や近くの農民と兵をあげます。米を買いしめる大商人の家をおそい、米やお金を人々に分けようとしました。これが1837年の大塩平八郎の乱です。
乱は半日ほどでしずめられましたが、町は大きな火事になりました。それでも幕府が受けたショックは大きなものでした。幕府の元役人で名の知られた学者が、幕府が直接おさめる大都市、天下の台所とよばれた大阪で反乱を起こしたからです。この「なぜ幕府はおどろいたのか」は、記述問題でよく問われます。
同じ1837年、海の外からも事件がやってきます。アメリカの商船モリソン号が、浦賀、今の神奈川県横須賀市の沖に来ました。日本人の漂流民7人を送り届け、それをきっかけに貿易を始めようとした船です。漂流民とは、船が流されて外国にたどり着いた人たちのことでした。
ところが幕府は、異国船打払令にもとづいてこの船を大砲で撃ち、追い返しました。モリソン号は薩摩、今の鹿児島県の湾でも撃たれ、引き返していきます。乗っていた漂流民も、日本に帰ることはできませんでした。これがモリソン号事件です。漂流民を送ってきた船まで撃ってしまったことで、打払令の危うさが見えてきます。
この打ち払いを、書物で批判した人たちがいました。蘭学、つまりオランダ語で西洋の学問を学んでいた渡辺崋山や高野長英たちです。幕府は1839年、この人たちを、幕府の政治を批判した罪できびしく処罰しました。これを蛮社の獄といいます。罪になったのは、外国のことを学んだうえで、幕府の政策を批判したことでした。
2天保の改革(1841年・老中 水野忠邦) 倹約・株仲間の解散・人返し令・上知令
国の中ではききんと大塩の乱、海の外では外国船。内と外の危機が重なるなか、1841年に老中の水野忠邦が幕府の立て直しを始めました。これが1841年の天保の改革です。老中は、将軍のもとで幕府の政治を動かすいちばん上の役職でした。
江戸時代の三大改革(享保・寛政・天保)では、天保の改革が3つ目、最後の改革にあたります。中心は将軍ではなく、老中の水野忠邦です。享保の改革は8代将軍の徳川吉宗が自分で進め、寛政の改革は老中の松平定信が進めました。水野は、この享保と寛政の2つの改革を手本にしています。
水野がまず進めたのが倹約、つまりむだづかいをやめて節約することです。ぜいたくな菓子や料理、着物、大きな人形などを禁じ、芝居や出版もきびしく取りしまりました。暮らしのすみずみまで細かく決められたので、町の人々の不満は高まっていきます。
もう一つの柱が株仲間の解散です。株仲間は、商人や職人がつくった同業者の組合で、商売を独占していました。水野は、物の値段が高いのは株仲間が商売を独占しているからだと考え、株仲間を解散させて自由に売り買いさせます。ところが、かえって商品の流れが混乱し、物の値段はむしろ上がってしまいました。前に老中の田沼意次は株仲間をすすめていたので、水野はその逆をしたことになります。
改革のさなかに、外国船への対応も変わりました。となりの清(今の中国)が、イギリスとの戦争、アヘン戦争に敗れたという知らせが届きます。そこで幕府は1842年に異国船打払令をやめ、外国船に燃料のまきや水、食料を与えて帰らせることにしました。これを天保の薪水給与令といいます。外国と貿易を始めたのではなく、争いを避けて帰ってもらうための命令でした。
国の中では、農村の立て直しにも手をつけます。江戸、今の東京に出てきた農民を村に帰らせ、新しく江戸に出てくることも禁じました。これが人返し令です。荒れた村を立て直し、年貢をしっかり取れるようにするのがねらいでした。寛政の改革でも、農民を村に帰らせる政策がとられています。
そして水野は上知令を出しました。江戸や大阪の周りにある大名や旗本の領地を幕府の領地にし、かわりに別の土地を与えるという命令です。年貢の多い土地を集め、江戸や大阪の守りを固めるねらいもありました。ところが、領地を取り上げられる大名や旗本は強く反対し、その土地の農民や町人にも反対する人々がいました。上知令は、実施されないまま取り消されます。
上知令への反対に、きびしい取りしまりへの人々の不満も重なり、水野は老中をやめさせられました。天保の改革は2年あまりで終わり、失敗に終わったと答えるのがテストでの言い方です。幕府は、おひざもとの江戸や大阪の周りの領地でさえ、思いどおりに動かせませんでした。それだけ幕府の力が弱くなっていたのです。
3雄藩の成長 改革に成功して力をつけた藩
幕府の改革がうまくいかなかったのと同じころ、自分たちの改革に成功した藩がありました。
薩摩藩、今の鹿児島県では、大きな借金を、とても長い分割払いにして整理しました。さらに、奄美の島々、今の鹿児島県の奄美群島でつくらせた黒砂糖を専売にして利益を上げます。専売とは、藩が特産物を一手に買い上げて売るしくみです。ただし、この砂糖の専売は、奄美の島々の人々に重い負担をかけました。
長州藩、今の山口県でも借金の整理を進めました。下関、今の山口県下関市の港では、よその船が運んできた商品を預かって売ったり、お金を貸したりして利益を上げています。
佐賀藩、今の佐賀県では、倹約や村の立て直しを進め、陶磁器の専売で収入をふやしました。長崎、今の長崎県の警備をまかされていたので、西洋の技術も取り入れています。のちには鉄をとかす炉を築き、鉄の大砲までつくりました。
こうして改革に成功し、力をつけた藩を雄藩といいます。幕府の改革は失敗し、雄藩の改革は成功した。この対比が、天保の改革の単元でいちばん問われるところです。雄藩は、のちの時代に大きな役割を果たしていきます。
まとめ ききんと外国船から、幕府のおとろえへ
天保のききん・百姓一揆・打ちこわし → 1837年 大塩平八郎の乱、同じ年にモリソン号事件 → 打ち払いを批判した蘭学者が処罰される(蛮社の獄) → 1841年 老中の水野忠邦が天保の改革を始める(倹約・株仲間の解散・人返し令・上知令) → 反対と不満で2年あまりで終わる → 幕府がおとろえ、改革に成功した雄藩が力をのばす
国の中の危機にも海の外の危機にも、幕府はうまく手を打てませんでした。その一方で、薩摩藩・長州藩・佐賀藩のような雄藩が力をたくわえていきます。
年表
年 | 出来事 | ポイント |
|---|---|---|
1837年 | 大塩平八郎が大阪で乱を起こす(大塩平八郎の乱)。アメリカの商船を打払令にもとづいて砲撃する(モリソン号事件) | 内と外の危機 |
1841年 | 老中の水野忠邦が天保の改革を始める | 幕府の改革 |
用語のまとめ
用語 | 種類 | 意味 |
|---|---|---|
天保のききん | 出来事 | 1830年代の全国的な大ききん。米の値段が上がり、うえ死にする人が多く出た |
大塩平八郎 | 人物 | 大阪の町奉行所の元役人(与力)で、陽明学者。ききんで苦しむ人々を救おうと乱を起こした |
大塩平八郎の乱 | 反乱 | 1837年、大塩平八郎が「救民」をかかげて大阪で起こした幕府への反乱。大塩の乱ともいう |
モリソン号事件 | 事件 | 1837年、漂流民を送り届けて貿易を求めたアメリカの商船を、異国船打払令にもとづいて砲撃し、追い返した事件 |
異国船打払令 | 法令 | 清とオランダ以外の外国船を打ち払う(追い払う)よう命じた法令 |
蛮社の獄 | 事件 | 打ち払いを批判した蘭学者の渡辺崋山・高野長英らを、幕府が政治を批判した罪で処罰した事件 |
水野忠邦 | 人物 | 天保の改革を行った老中 |
老中 | 役職 | 将軍のもとで幕府の政治を動かす、いちばん上の役職 |
天保の改革 | 改革 | 1841年から老中の水野忠邦が行った幕府の立て直し。三大改革の3つ目。2年あまりで終わった |
株仲間 | 組合 | 商人や職人の同業者の組合。商売を独占していた |
株仲間の解散 | 政策 | 物の値段を下げようと、株仲間を解散させたこと。かえって商品の流れが混乱した |
薪水給与令 | 法令 | 異国船打払令をやめ、外国船に燃料・水・食料を与えて帰らせることにした命令 |
人返し令 | 法令 | 江戸に出てきた農民を村に帰らせ、新しく江戸に出てくることも禁じた命令 |
上知令 | 法令 | 江戸や大阪の周りの大名・旗本の領地を、幕府の領地にしようとした命令。反対が強く取り消された |
雄藩 | 藩 | 藩の改革に成功して力をつけた藩。薩摩藩(今の鹿児島県)・長州藩(今の山口県)・佐賀藩(今の佐賀県)など |
専売 | しくみ | 藩が特産物を一手に買い上げて売り、利益を得るしくみ |
よくある間違い
大塩平八郎は、乱を起こしたときには役人をやめていました。 もとは大阪の町奉行所の与力で、答案では「元役人(与力)で陽明学者」と書きます。幕府がおどろいた理由も、この「幕府の元役人が」というところにあります。
モリソン号は、アメリカの商船です。 来た目的は、日本人の漂流民を送り届けることと、貿易を求めることでした。幕府は打払令にもとづいて大砲を撃ち、船を追い返しています。
蛮社の獄で罪に問われたのは、幕府の政治を批判したことです。 渡辺崋山や高野長英は、モリソン号の打ち払いを書物で批判しました。「何をしたから処罰されたのか」がそのまま記述で問われます。
株仲間を「すすめた」のは田沼意次、「解散させた」のは水野忠邦です。 2人は逆の政策をとりました。解散のねらいは物の値段を下げることでしたが、かえって商品の流れが混乱して、うまくいきませんでした。
天保の改革の中心は、老中の水野忠邦です。 三大改革の中心人物は、享保が将軍の吉宗、寛政が老中の定信、天保が老中の水野です。将軍か老中かまでセットで問われることがあります。
薪水給与令は、外国船を帰らせるための命令です。 燃料や水・食料を与えて、争わずに帰ってもらう方針に変えただけで、外国との貿易を始めたわけではありません。
水野が老中をやめさせられた理由は、2つ並べて書きます。 上知令に大名・旗本が強く反対したことと、きびしい取りしまりへの人々の不満が大きかったことです。
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内と外の危機から雄藩の成長までの流れをざっと確かめたいときはアニメーション編を見てください。大塩の乱が幕府をおどろかせた理由や、雄藩の改革の中身まで知りたいときは、詳細解説編の動画がおすすめです。
重要語句 大塩平八郎の乱、モリソン号事件、蛮社の獄、水野忠邦、上知令