解説
1853年、アメリカの軍艦が江戸の近くの海にあらわれました。それから5年のうちに、幕府はアメリカと2つの条約を結び、200年あまり続いた鎖国をやめることになります。名前の似たこの2つの条約が、何を決めたのか、どこが違うのかが、この単元の山場です。
アメリカが日本に来た理由
前の単元で見たように、アヘン戦争で清(中国)がイギリスに負けたという知らせは、長崎(今の長崎県)を通じて幕府にも届いていました。あの大きな清が負けたことで、幕府は強い危機感をもちます。そこで外国の船を打ち払うのをやめ、燃料や水・食料をあたえて帰らせることにしていました。
そこへやって来たのがアメリカです。アメリカが日本の港をほしがった理由は2つあります。
- 日本の近くの海で鯨をとっていた捕鯨船が、燃料や食料を手に入れたり、避難したりする港がほしかった
- 太平洋をわたって清と貿易をするために、船が燃料を補給する場所がほしかった
2つ目の港は、アメリカと清を結ぶ船が途中で立ち寄る中継地です。「捕鯨船」と「清との貿易」の2つは、ペリーが来た理由を説明する問題でよく問われます。
11853年 ペリーが浦賀に来て開国を求める
1853年、アメリカのペリーが、4隻の軍艦を率いて浦賀に来ました。浦賀は今の神奈川県横須賀市にあり、江戸の近くの海の入り口にある港町です。じつはこの前の年に、アメリカの使節が来るという知らせがオランダから幕府に届いていました。
ペリーの艦隊は、船体を黒くぬった外国の船を指す「黒船」の名でよばれました。煙をはいて進む蒸気船もふくむこの艦隊は、人々に大きな衝撃をあたえます。
ペリーは、浦賀と同じ横須賀市の久里浜で、アメリカの大統領の手紙を幕府にわたし、日本に開国を求めました。開国とは、鎖国をやめて外国に国を開くことです。
幕府は手紙を受け取りましたが、返事は1年待ってもらうことにしました。ペリーは、翌年また来ると言っていったん帰ります。
このときの幕府の中心は、老中の阿部正弘でした。阿部正弘は、大統領の手紙を日本語に訳したものを大名たちに見せて意見を聞き、朝廷にも知らせました。大名に意見を聞き、朝廷にも知らせるというのは、それまでの幕府にはなかったやり方です。このことが、のちに幕府への批判が強まるきっかけの一つになったといわれています。
21854年 日米和親条約で鎖国が終わる
翌年、ペリーは7隻の軍艦で再びやって来ました。今度は江戸の近くの海の奥まで入り、強い態度で条約を結ぶよう求めます。幕府は戦争を避けるため、この要求を受け入れることにしました。
こうして結ばれたのが、1854年の日米和親条約です。決めたことは、おもに次の3つです。
- 下田と函館の2つの港を開く
- アメリカの船に、燃料や食料、水などをあたえる
- 遭難した船員を助ける
下田は今の静岡県の伊豆半島にある港、函館は今の北海道の港です。函館は、当時は「箱館」と書いていました。
和親条約で決めたのは、港を開いて船に補給をするところまでで、まだ貿易は認めていません。貿易が始まるのは、4年後の日米修好通商条約からです。
それでも、この条約で200年あまり続いた鎖国は終わりました。幕府は同じような条約を、イギリス・ロシア・オランダとも結んでいきます。
31858年 日米修好通商条約と不平等条約
1856年、アメリカの総領事ハリスが下田にやってきます。領事とは、外国に置かれて、自分の国の貿易や自分の国の人を守る役人のことです。ハリスは、貿易を始める条約を結ぶよう幕府に強く求めました。
幕府は条約を認めてもらおうと朝廷に許可を求めましたが、天皇は反対で、許可は得られませんでした。
そのころ大老になったのが、井伊直弼です。大老は、必要なときだけ老中の上に置かれる、幕府のいちばん上の役職です。このころ清はイギリス・フランスとの戦争にまた負けていて、井伊直弼は、ハリスから聞いた「イギリスやフランスの艦隊が日本にも来るかもしれない」という話をおそれたといわれています。
そして井伊直弼は、天皇の許可(勅許)を得ないまま、1858年に日米修好通商条約を結びました。勅許とは、天皇の許可のことです。
この条約では、次の5つの港を開いて、貿易を始めることを決めました。
条約での港の名前 | 今の場所 |
|---|---|
函館 | 今の北海道 |
神奈川(実際に開いたのは横浜) | 今の神奈川県横浜市 |
長崎 | 今の長崎県 |
新潟 | 今の新潟県 |
兵庫(実際に開いたのは神戸) | 今の兵庫県神戸市 |
和親条約で開いていた下田は、閉じられることになりました。
ただしこの条約は、日本にとって不利な不平等条約でした。不平等なところは、次の2つです。
1つ目は、領事裁判権を認めたことです。日本で罪をおかした外国人を、日本の法律で裁くことができません。その外国人の国の領事が、自分の国の法律で裁きます。領事裁判権は、治外法権の一つです。
2つ目は、日本に関税自主権がなかったことです。関税とは、外国から入ってくる品物(輸入品)にかける税のことで、関税自主権は、その税の割合を自分の国で決められる権利です。日本にはこの権利がなく、関税の割合を日本だけで決めることができませんでした。
幕府は同じような条約を、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結びました。アメリカとあわせた5か国との条約を、まとめて安政の五か国条約とよびます。
まとめ 2つの条約を比べる
この単元の流れを一本の線でつなぐと、こうなります。
1853年 ペリーが浦賀に来て開国を求める → 阿部正弘が大名に意見を聞き、朝廷にも知らせる → 1854年 日米和親条約(下田・函館の2港、貿易はまだ) → 鎖国が終わる → ハリスが貿易の条約を求める → 1858年 井伊直弼が勅許を得ないまま日米修好通商条約(5つの港、貿易を始める、不平等条約)
2つの条約を並べると、違いは次のとおりです。
日米和親条約 | 日米修好通商条約 | |
|---|---|---|
年 | 1854年 | 1858年 |
アメリカ側の人物 | ペリー | ハリス |
幕府の中心 | 老中 阿部正弘 | 大老 井伊直弼(勅許なし) |
開いた港 | 下田・函館の2つ | 函館・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の5つ |
貿易 | まだ認めていない | 始めることを決めた |
不平等な中身 | ― | 領事裁判権を認める・関税自主権がない |
こうして日本は、200年あまり続いた鎖国をやめ、欧米の国々と不平等な条約を結んで、貿易を始めることになりました。けれども、天皇の許可を得ないまま条約を結んだ井伊直弼のやり方には、反発する人たちも出てきます。貿易が始まって世の中がどう変わったのかは、次の単元「開国の影響と尊王攘夷」のテーマです。
年表
この単元でテストに出る年号は、次の3つです。
年 | 出来事 |
|---|---|
1853 | アメリカのペリーが浦賀に来て、開国を求める |
1854 | 日米和親条約を結ぶ(下田・函館を開く) |
1858 | 日米修好通商条約を結ぶ(5つの港を開き、貿易を始める) |
用語のまとめ
用語 | 種類 | 意味 |
|---|---|---|
ペリー | 人物 | 1853年に軍艦を率いて浦賀に来て、開国を求めたアメリカの軍人 |
浦賀 | 港町 | ペリーが来た港町。今の神奈川県横須賀市 |
黒船 | 船のよび名 | 船体を黒くぬった外国の船のよび名。ペリーの艦隊もこうよばれた |
捕鯨船 | 船 | 鯨をとる船。燃料や食料の補給、避難のための港を求めた |
開国 | 外国との関係 | 鎖国をやめて、外国に国を開くこと |
阿部正弘 | 人物 | ペリーが来たときの老中。大名に意見を聞き、朝廷にも知らせた |
日米和親条約 | 条約 | 1854年にアメリカと結んだ条約。下田と函館の2つの港を開き、船に燃料・食料・水などをあたえる。貿易はまだ認めていない |
下田 | 港 | 日米和親条約で開いた港。今の静岡県の伊豆半島にある |
函館 | 港 | 日米和親条約で開いた港。当時は箱館と書いた。今の北海道 |
鎖国 | しくみ | 外国との行き来を制限するしくみ。日米和親条約で終わった |
ハリス | 人物 | 下田に来て、貿易を始める条約を強く求めたアメリカの総領事 |
領事 | 役人 | 外国に置かれて、自分の国の貿易や自分の国の人を守る役人 |
大老 | 役職 | 必要なときだけ老中の上に置かれる、幕府のいちばん上の役職 |
井伊直弼 | 人物 | 天皇の許可を得ないまま日米修好通商条約を結んだ大老 |
勅許 | 許可 | 天皇の許可 |
日米修好通商条約 | 条約 | 1858年にアメリカと結んだ条約。5つの港を開いて貿易を始めることを決めた。日本に不利な不平等条約 |
不平等条約 | 条約 | 日本に不利な条約。領事裁判権を認め、関税自主権がなかった |
領事裁判権 | 権利 | 日本で罪をおかした外国人を、その国の領事が自分の国の法律で裁く権利。日本の法律では裁けない |
関税 | 税 | 外国から入ってくる品物(輸入品)にかける税 |
関税自主権 | 権利 | 関税の割合を自分の国で決められる権利。日本にはなかった |
安政の五か国条約 | 条約 | アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5か国と結んだ、同じような条約をまとめたよび名 |
よくある間違い
貿易が始まったのは、日米修好通商条約からです。 日米和親条約で決めたのは、港を開いて船に補給をすることまででした。「貿易があるかないか」が、2つの条約を見分けるいちばんの手がかりです。
人物と条約の組み合わせは「ペリーと阿部正弘=和親条約」「ハリスと井伊直弼=修好通商条約」です。 名前を見たら、どちらの条約の話かを結びつけて答えます。
港の数は、和親条約が2つ、修好通商条約が5つです。 下田は和親条約で開いた港で、修好通商条約の5つには入りません。函館だけは、どちらの条約にも出てきます。
領事裁判権は、日本で罪をおかした外国人が、日本の法律で裁かれないというきまりです。 裁かれる側はいつも「外国人」です。だれがだれを裁くのか、向きを確かめてから答えます。
関税自主権は、日本に「なかった」権利です。 説明の問題では「関税の割合を日本だけで決められなかった」と書けるようにしておくと、言葉の意味まで答えられます。
井伊直弼は、天皇の許可(勅許)を得ないまま条約を結びました。 「勅許を得ないまま」という言い方がそのまま問われます。
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重要語句 ペリー、日米和親条約、井伊直弼、日米修好通商条約、領事裁判権