中学社会・歴史・開国と近代日本の歩み・No.63

富国強兵の三大改革

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解説

前の単元で見た廃藩置県で、藩がなくなり、政府が全国を治めるしくみができました。ここから明治政府は、欧米に負けない強い国をめざして、学校・軍隊・税のしくみを次々に変えていきます。その改革で、人々の暮らしはどう変わったのでしょうか。

明治政府がかかげた目標と、3つの改革

新しい政府が国の目標としてかかげたのが、富国強兵です。国の経済を発展させて国を豊かにし(富国)、軍事力を強くする(強兵)こと、という意味です。この言葉は幕末にもう使われていましたが、明治政府がこれを国の目標にすえました。

富国強兵のために、政府は学制・兵制・税制の3つの改革を進めます。この3つをまとめて三大改革と呼ぶこともあります。中身は次の組み合わせです。

  • 学制(学校の改革)
  • 兵制の改革=徴兵令(軍隊の改革)
  • 税制の改革=地租改正(税の改革)

富国強兵には、国を豊かにするための産業づくりである殖産興業という柱もあります。こちらは次の単元でくわしく学びます。

11872年の学制 すべての子どもが学ぶことをめざして

1872年、学制が出されました。6歳以上の男子も女子も、すべての子どもが小学校で教育を受けることをめざした、日本で最初の近代的な学校のしくみです。学制を全国に出したのは、文部省という役所でした。

学制は欧米の制度を参考にしてつくられ、全国を学区に分けて、それぞれに小学校をつくる計画が立てられました。政府が学校に力を入れたのは、国を強くするには、国民の知識を高めて人材を育てることが必要だったからです。身分や男女に関係なく国民みんなが学ぶという考え方は、今の学校のしくみにもつながっています。

小学校の多くは、江戸時代の寺子屋などをもとにしてつくられ、数年のうちに全国で2万をこえました。ところが、はじめのころ学校に通う子どもは3割に届かず、女子はとくに少数でした。学校に通う子どもの割合を就学率といいます。

授業料や、学校をつくって運営するお金は、地元の人々が負担していました。人々にとっては重い負担で、学制への不満も大きかったのです。「すべての子どもが学ぶことをめざした」ことと、「実際に通えた子ども」は分けて考えます。

21873年の徴兵令 満20歳の男子に兵役

1873年、徴兵令が出されました。満20歳になった男子に、3年間軍隊に入る義務を負わせたのです。この義務を兵役といい、兵役は国民の義務の1つになりました。

ねらいは、それまでの武士の集団にかわって、欧米の国々のような近代的な軍隊をつくることでした。国民みんなが兵役につくこと、つまり国民皆兵をめざしたのです。

ただし、はじめは兵役を免除される人がたくさんいました。家の主人である戸主、役人、それに270円のお金(代人料)を納めた人などです。そのため兵役の負担は、おもに農家の次男や三男にかかりました。国民皆兵をめざしたとはいえ、はじめは公平とはいえなかったのです。

徴兵令に反対する一揆も、西日本を中心に起きました。これを血税一揆といい、役所や学校などがおそわれることもありました。農民にとって兵役は、家の働き手をとられることです。そうした負担に反発して、一揆が起きたのでした。

31873年の地租改正 地価の3%を現金で

江戸時代、田の年貢はおもに米で納めていました。税をかける基準は、米のとれ高(収穫高)です。

これを大きく変えたのが、同じ年に始まった1873年の地租改正です。税をかける基準を、米のとれ高から土地の値段に変えました。この土地の値段を地価といいます。

土地の持ち主には地券がわたされました。地券は、土地の持ち主であることを証明する証書です。持ち主の名前、土地の場所、地価、納める税の額などが書かれていて、地価は土地ごとに決められて地券に書きこまれました。

そして、土地の持ち主が地価の3%を現金で納めることになりました。この税を地租といいます。地券を持つ人が、税を納める人になったのです。

政府が税のしくみを変えたのは、政府の収入(税収)を安定させるためでした。豊作の年も不作の年も、税の額は増やしも減らしもしません。富国強兵の改革を進めるには、お金のもとが安定していることが大事だったのです。この地租改正を進めたのは、大久保利通らでした。

けれども、税の重さは江戸時代の年貢とほとんど変わりませんでした。軽くしてほしいと、各地で一揆が起きます。1876年には茨城県や三重県などで、地租改正に反対する大きな一揆が起きました。政府は次の年、地租を地価の2.5%に引き下げます。人々の反対を受けて、政府が税を下げたのです。

テストで答えるのは、もとの3%の方です。2.5%は「のちに下げられた」と添える数字として覚えます。

まとめ 3つの改革と人々の負担

この単元の流れを一本の線でつなぐと、こうなります。

廃藩置県で、政府が全国を治めるしくみができる → 欧米に負けない強い国をめざして富国強兵 → 1872年 学制(6歳以上の男女すべてが学ぶことをめざす) → 1873年 徴兵令(満20歳になった男子に兵役) → 1873年 地租改正(地価の3%を現金で) → 負担への反発から各地で一揆 → 地租はのちに2.5%に

3つの改革で、人々は国民として、教育・兵役・税という負担を受けるようになりました。そのため、反対する動きも各地で起きたのです。富国強兵のもう1つの柱である産業づくりは、次の単元「殖産興業と文明開化」の話です。

年表

この単元でテストに出る年号は、1872年と1873年です。徴兵令と地租改正は同じ1873年で、学制だけが1年早いと覚えると整理しやすくなります。

年

出来事

1872

学制が出される

1873

徴兵令が出される

1873

地租改正が始まる

用語のまとめ

用語

種類

意味

富国強兵

目標

国の経済を発展させて豊かにし、軍事力を強くすること。明治政府が国の目標としてかかげた

三大改革

改革

学制・兵制(徴兵令)・税制(地租改正)の3つの改革

殖産興業

政策

国を豊かにするための産業づくり。富国強兵のもう1つの柱で、次の単元で学ぶ

学制

制度

1872年。6歳以上の男女すべてが小学校で教育を受けることをめざした、日本で最初の近代的な学校のしくみ

文部省

役所

学制を全国に出した役所

寺子屋

学びの場

江戸時代の学びの場。学制の小学校の多くは寺子屋などをもとにつくられた

就学率

割合

学校に通う子どもの割合。学制のはじめのころは3割に届かず、女子はとくに少なかった

徴兵令

法令

1873年。満20歳になった男子に、3年間軍隊に入る義務を負わせた

兵役

義務

軍隊に入る義務

国民皆兵

考え方

国民みんなが兵役につくこと。徴兵令はこれをめざしたが、はじめは免除が多かった

戸主

立場

家の主人。はじめは兵役を免除された

代人料

お金

270円のお金。納めた人は兵役を免除された

血税一揆

一揆

徴兵令に反対して、西日本を中心に起きた一揆

地租改正

改革

1873年。税の基準を米の収穫高から地価に変え、土地の持ち主に地価の3%を現金で納めさせた

年貢

税

江戸時代の税。田の年貢はおもに米で納めた

収穫高

基準

米のとれ高。江戸時代に税をかける基準だった

地価

値段

土地の値段。地租改正で税の基準になった

地券

証書

土地の持ち主であることを証明する証書。持ち主・場所・地価・税の額などが書かれた

地租

税

地租改正で決まった税。地価の3%(のちに2.5%)を現金で納めた

大久保利通

人物

地租改正を進めた人物の一人

よくある間違い

徴兵令と地租改正は、どちらも1873年です。 学制だけが1872年なので、3つの年号はセットで確かめます。

兵制の改革が徴兵令、税制の改革が地租改正です。 学制は学校、兵制は軍隊、税制は税と、組み合わせで問われます。

学制は、すべての子どもが学ぶことを「めざした」しくみです。 はじめのころ学校に通う子どもは3割に届かず、授業料や学校の費用も地元の負担でした。

徴兵令の対象は、満20歳になった男子です。 はじめは戸主や代人料を納めた人などが免除され、兵役の負担はおもに農家の次男・三男にかかりました。

血税一揆の理由は、兵役で家の働き手をとられることなどへの反発です。 「なぜ反対したのか」は、人々の負担と結びつけて答えます。

地租を納めるのは、土地の持ち主です。 基準は地価で、地価の3%を現金で納めます。基準の「地価」を「収穫高」と取りちがえる答えがひっかけとして出ます。

税の重さは、江戸時代の年貢とほとんど変わりませんでした。 だから各地で反対の一揆が起き、のちに2.5%に下げられました。テストの答えは3%です。

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流れをもう一度確認したいときはアニメーション編、くわしい理由まで知りたいときは詳細解説編の動画をどうぞ。

重要語句 学制、徴兵令、地租改正、地券

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