中学社会・歴史・開国と近代日本の歩み・No.65

岩倉使節団と国境の画定

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解説

明治政府は、廃藩置県や学制・徴兵令・地租改正などで、国の中のしくみを作り変えていました。ただ、政府にはもう1つ、決めなければならないことがありました。外国とどうつき合うのか、そして日本の範囲、つまり国境をどこにするのかです。

明治政府のもう1つの課題 外国とのつき合い方と国境

幕末に江戸幕府が欧米と結んだ条約は、日本に不利な不平等条約でした。外国に領事裁判権を認めていて、日本には関税自主権がありません。領事裁判権とは、日本で罪をおかした外国人を日本の法律で裁けないことです。関税自主権がないとは、輸入品にかける税の割合を日本だけで決められないことをいいます。

まわりの国との関係も、まだ決まっていませんでした。となりの清(今の中国)や朝鮮と、どんな条約を結ぶのか。北のロシアとの国境、南の琉球王国(今の沖縄県)をどう扱うのか。この単元では、明治政府がこれらに一つずつ答えを出していった流れを追います。

1岩倉使節団と征韓論 欧米へ出かけた首脳と、留守の間の対立

1871年、明治政府は欧米に使節団を送りました。岩倉具視を大使とし、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らを副使とする岩倉使節団です。政府の中心にいた人たち、つまり首脳の多くが加わり、留学生もふくめた大人数の使節団になりました。

留学生の中には、日本で最初の女子留学生の一人、津田梅子がいました。津田梅子は帰国したあと、女子英学塾(今の津田塾大学)をつくり、女子の教育に力をつくした人です。前の単元で見た中江兆民も、この使節団と一緒にヨーロッパへ渡りました。

使節団はおよそ2年かけて、アメリカとヨーロッパの12か国を回ります。目的は2つありました。

  • 不平等条約を改めるための話し合い(不平等条約を改めることを条約改正といいます)
  • 欧米の制度や文化を調べること

結果を見ると、条約改正の話し合いはうまくいきませんでした。そこで使節団は、制度や文化を調べる方に力を入れます。欧米の進んだ文明を見て帰り、そこで得たことを帰国後の国づくりに生かそうとしました。条約改正だけで使節団をはかるのではなく、調べたことを国づくりに生かそうとした点まで、2つ合わせて答えられるようにしておきたいところです。

使節団が出かけている間の日本では、朝鮮との関係が問題になっていました。明治政府は、となりの朝鮮に国交を結ぶよう求めていましたが、鎖国を続ける朝鮮はこれに応じなかったのです。日本に残っていた西郷隆盛や板垣退助らは、朝鮮に兵を送ろうと主張しました。これを征韓論といいます。「韓」は、ここでは当時の朝鮮のことです。

西郷隆盛は、まず自分が使節として朝鮮へ行くことを主張していました。西郷が本当はどう考えていたのかについては、研究者のあいだでも意見が分かれています。

そこへ使節団が帰ってきます。岩倉・大久保・木戸らは、今は国内の政治を整えるのが先だと考え、征韓論に反対しました。意見が通らなかった西郷や板垣らは、1873年に政府の職を辞めて政府を去ります。征韓論をめぐって政府が2つに分かれたこの対立は、のちの自由民権運動や士族の反乱の原因になりました。

2清と朝鮮との条約 日清修好条規と、日朝修好条規(1876年)

まずは清です。使節団が出発したのと同じ1871年に、日本は清と日清修好条規を結んでいました。日本と清が結んだ、最初の条約です。おたがいに領事裁判権を認め合う、対等な条約でした。

次は朝鮮です。日本は朝鮮に開国を求めて、軍艦の力を見せていました。その日本の軍艦が、江華島の砲台と戦闘になります。江華島は、朝鮮半島の西側、今のソウルの近くにある島です。これを江華島事件といいます。日本はこの事件をきっかけに、朝鮮に開国をせまりました。

そして1876年、日朝修好条規です。日本は朝鮮にこの条約を結ばせました。中身は次の3つです。

  • 釜山など3つの港を開かせる
  • 日本の領事裁判権を認めさせる
  • 朝鮮の関税自主権を認めない

朝鮮にとって不平等な条約でした。領事裁判権を認め、関税自主権がない。日本が幕末に欧米と結ばされた不平等条約に似た条約を、今度は日本が朝鮮に押しつけたのです。

清とは対等、朝鮮には不平等。2つの条約は名前がよく似ているので、対等か不平等かで区別しておくと取り違えません。

3北と南の国境 樺太・千島交換条約(1875年)と琉球処分

まずは北です。江戸時代の終わりに、日本はロシアと日露和親条約を結んでいました。この条約で、千島列島の方は択捉島とウルップ島の間が国境になりました。ところが、北海道の北にある細長い島、樺太は、日本人とロシア人がともに住む土地として、国境を決めていませんでした。

樺太をめぐってロシアとの関係が緊張していたので、政府は北の開拓を急ぎます。1869年、政府は北海道の開拓のための役所、開拓使を置きました。「北海道開拓使」という言い方もあります。このとき、それまでの蝦夷地(今の北海道)を北海道と改めました。開拓使はアメリカ人など外国人を招いて指導を受け、道路や港をつくっていきました。

北海道には屯田兵も置かれました。屯田兵は、ふだんは農業をしながら、北海道の開拓と警備にあたった兵士です。ねらいは2つありました。

  • ロシアに備えること
  • 仕事を失った士族を救うこと

そのため、はじめは士族が集められ、のちには平民も加わりました。屯田兵を置いた理由を聞かれたら、この2つをセットで答えます。

北海道には、開拓の前からアイヌの人々が暮らしていました。アイヌの人々は、北海道などに昔から住み、独自の言葉と文化をもつ先住民族です。開拓が進むと、アイヌの人々の土地は国のものとされ、本州から多くの人が移り住みました。アイヌの人々は、狩りや漁をする権利もうばわれていきます。

さらに政府は、アイヌの人々に日本の文化に合わせる政策、同化政策を進めました。たとえば、女性の入れ墨や男性の耳輪など、アイヌの人々の習慣が禁止されました。こうしてアイヌの人々は、言葉や習慣など、独自の文化の多くを失っていきました。今では、アイヌの人々を先住民族として認めることを求める国会の決議も出され、文化を受けつぐ取り組みが進んでいます。

そして1875年、樺太・千島交換条約です。日本はロシアとこの条約を結びました。この条約で、樺太はロシア領、千島列島は全部日本領になります。日本は樺太をあきらめるかわりに、ウルップ島から北の千島列島を手に入れました。名前のとおり、樺太と千島を交換したわけです。

次は南です。琉球王国は、清とも関係をもっていました。1872年、政府は琉球王国を琉球藩(今の沖縄県)にして、国王を藩王にします。全国の藩は廃藩置県でもうなくなっていたのに、琉球には新しく藩を置いたことになります。そのうえで政府は、琉球に清との関係をやめるよう求めました。

琉球では反対する動きもありましたが、1879年、政府は軍隊と警察を送って琉球藩を廃止し、沖縄県を置きました。琉球王国最後の王、尚泰は、首里城(今の沖縄県那覇市)を明け渡して東京に移るよう命じられます。こうして、長く続いた琉球王国は終わりました。琉球藩を置いてから沖縄県を置くまでの、政府の一連の動きを琉球処分といいます。

まとめ 欧米・清・朝鮮との関係と、北と南の国境

この単元の流れを一本の線でつなぐと、こうなります。

岩倉使節団が欧米へ(条約改正はうまくいかず、見たことを国づくりに生かそうとする) → 留守の間に征韓論、西郷・板垣らが政府を去る → 清とは対等な日清修好条規 → 江華島事件 → 1876年 朝鮮に不平等な日朝修好条規 → 北海道に開拓使・屯田兵、アイヌの人々は土地や権利、独自の文化の多くを失う → 1875年 樺太・千島交換条約 → 琉球藩から沖縄県へ(琉球処分)

明治政府は、欧米とは条約改正をめざし、清とは対等、朝鮮には不平等な条約を結びました。そして北と南で、日本の範囲を一つずつ決めていきました。

なお、択捉島から南の北方領土は、樺太・千島交換条約より前から日本の領土です。このあと明治政府は、尖閣諸島を沖縄県に、竹島を島根県に正式に編入しました。どちらも日本固有の領土です。

征韓論で政府を去った板垣退助や西郷隆盛が、このあとどう動いたのかは、次の単元「自由民権運動」のお話です。

年表

この単元でテストに出る年号は、1875年と1876年の2つです。開拓使・岩倉使節団・征韓論・琉球処分は、年号より「使節団の留守の間に征韓論」「琉球藩から沖縄県へ」という順番で押さえておくと整理しやすくなります。

年

出来事

1875

日本とロシアが樺太・千島交換条約を結ぶ

1876

日本が朝鮮に日朝修好条規を結ばせる

用語のまとめ

用語

種類

意味

岩倉使節団

使節団

岩倉具視を大使、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らを副使として欧米へ送った使節団。条約改正の話し合いはうまくいかず、欧米の制度や文化を調べた

津田梅子

人物

岩倉使節団に同行した、日本で最初の女子留学生の一人。帰国後、女子の教育に力をつくした

不平等条約

条約

幕末に江戸幕府が欧米と結んだ、日本に不利な条約。領事裁判権を認め、関税自主権がなかった

条約改正

政府の課題

不平等条約を改めること

領事裁判権

権利

罪をおかした外国人を、その国の領事がその国の法律で裁く権利。認めると、日本の法律で裁けない

関税自主権

権利

輸入品にかける税(関税)の割合を、自分の国で決める権利

征韓論

主張

西郷隆盛・板垣退助らが唱えた、朝鮮に兵を送ろうとする主張

日清修好条規

条約

日本と清が結んだ最初の条約。おたがいに領事裁判権を認め合う対等な条約

江華島事件

事件

朝鮮に開国を求めて軍艦の力を見せていた日本の軍艦が、江華島の砲台と戦闘になった事件

日朝修好条規

条約

1876年、日本が朝鮮に結ばせた条約。日本の領事裁判権を認めさせ、朝鮮の関税自主権を認めない不平等な条約

日露和親条約

条約

江戸時代の終わりにロシアと結んだ条約。択捉島とウルップ島の間を国境とし、樺太は国境を決めなかった

開拓使(北海道開拓使)

役所

北海道の開拓のために政府が置いた役所

屯田兵

兵士

ふだんは農業をしながら、北海道の開拓と警備にあたった兵士。ロシアに備え、仕事を失った士族を救うねらいがあった

アイヌの人々

人々

北海道などに昔から住み、独自の言葉と文化をもつ先住民族

同化政策

政策

アイヌの人々に日本の文化に合わせさせた政策。言葉や習慣など、独自の文化の多くが失われた

樺太・千島交換条約

条約

1875年、日本とロシアが結んだ条約。樺太はロシア領、千島列島は全部日本領になった

琉球藩

藩

政府が琉球王国を改めて置いた藩。国王を藩王にした

沖縄県

県

政府が軍隊と警察を送り、琉球藩を廃止して置いた県

琉球処分

一連の動き

琉球藩を置いてから沖縄県を置くまでの、政府の一連の動き

よくある間違い

岩倉使節団の結果は、2つセットで書きます。 条約改正の話し合いはうまくいかなかったこと、欧米で見たことを国づくりに生かそうとしたこと。片方だけでは記述の答えとして足りません。

征韓論を唱えたのは西郷隆盛・板垣退助ら、反対したのは岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らです。 使節団から帰ってきた側が反対した、と覚えると組み合わせを取り違えません。西郷が本当はどう考えていたのかは、意見が分かれています。

日清修好条規は対等、日朝修好条規は朝鮮にとって不平等です。 日清はおたがいに領事裁判権を認め合い、日朝は日本の領事裁判権だけを認めさせました。年号が問われるのは日朝修好条規の1876年です。

樺太・千島交換条約では、樺太がロシア領、千島列島が日本領になりました。 向きを逆にした選択肢がひっかけとして出ます。「日本は樺太をあきらめて、千島を手に入れた」と言葉で確かめておくと安心です。

屯田兵は、農業をしながら警備にもあたった兵士です。 ねらいは「ロシアに備える」と「仕事を失った士族を救う」の2つで、片方だけを書くと記述では足りません。

琉球処分は、ある1年の出来事の名前ではありません。 1872年に琉球藩を置いてから、1879年に軍隊と警察を送って沖縄県を置くまでの、一連の動きをまとめた呼び名です。

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重要語句 征韓論、日朝修好条規、樺太・千島交換条約、琉球処分、屯田兵

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