解説
明治時代のはじめ、政府を去った板垣退助と西郷隆盛は、まったく別の道を進みました。板垣は言論で、西郷は武力で、政府に反対したのです。西南戦争で武力の反乱が終わると、国会を開くよう求める声は、自由民権運動として全国に広がっていきました。
政府を去った2人
前の単元で、政府の中では征韓論をめぐって対立が起きました。征韓論は、朝鮮に兵を送ろうとする主張のことです。この対立で、西郷隆盛や板垣退助たちは政府を去りました。
板垣退助は土佐藩(今の高知県)、西郷隆盛は薩摩藩(今の鹿児島県)の出身です。政府の外に出た2人は、このあと別々の方法で政府に反対していきます。板垣は意見書を出す言論の道へ、西郷は兵をあげる武力の道へ進みました。この2本の流れが最後にどうなるのかを追っていくと、単元全体がつかみやすくなります。
1民撰議院設立の建白書(1874年)と自由民権運動の始まり
このころの明治政府では、旧薩摩藩や、旧長州藩(今の山口県)などの出身者が、政治を独占していました。特定の藩の出身者が、政府の大事な役職を独占してつくった派閥を藩閥といいます。
この藩閥の政治を批判したのが、板垣たちです。1874年、板垣退助らは政府に意見書を出しました。これが1874年、民撰議院設立の建白書です。国民が選んだ議員でつくる議会、つまり国会を開くよう求めた意見書でした。中身は2つに分けられます。
- 藩閥の政治を批判する
- 国会を開くことを求める
この建白書がきっかけになって、自由民権運動が始まります。国民の政治参加を求めて、国会の開設などを要求した運動です。藩閥の政治に反対し、国民の自由と権利を求めた運動ともいえます。「民撰議院設立の建白書」は字が難しく、漢字で書かせる問題でまちがえやすい語です。
板垣は郷里の高知(今の高知県)に帰り、立志社をつくりました。はじめは士族を救うのが目的でしたが、のちに自由民権運動の中心になっていきます。
2士族の反乱と西南戦争(1877年)、武力から言論へ
一方、西郷の側では、もとの武士たちの不満が高まっていました。明治になって、もとの武士は士族と呼ばれるようになります。廃藩置県や徴兵令などの改革で、士族はそれまでの特権を失っていき、政府への不満も強まりました。
そして、今の佐賀県や熊本県、福岡県、山口県など、各地で士族の反乱が起きます。一つ一つの反乱の名前までは覚えなくてかまいません。「士族の反乱」という言葉のほうを押さえます。
政府を去った西郷は鹿児島(今の鹿児島県)に帰り、私学校という学校をつくっていました。1877年、その私学校の生徒たちが西郷をおし立てて兵をあげます。これが1877年、西南戦争です。西郷隆盛が率いた、鹿児島の士族を中心とする反乱でした。
西郷軍は熊本城(今の熊本県熊本市)を攻めましたが、攻め落とすことはできませんでした。最後は鹿児島の城山で政府軍に囲まれ、西郷はたおれます。勝ったのは、徴兵中心の政府軍でした。もとの武士たちの反乱が、徴兵中心の軍隊にしずめられたのです。西南戦争は、士族の反乱の中で最大で、そして最後の反乱になりました。
西南戦争のあと、武力で政府に反抗することは終わります。政府に反対する運動の中心は、言論による自由民権運動に移っていきました。運動に加わる人も変わり、はじめは士族が中心でしたが、地主・豪農や農民、商工業者なども加わって、国民的な運動になっていきます。前々回の単元で見た中江兆民がルソーの考えを紹介したことも、自由民権運動に影響をあたえました。
「西南戦争のあと、政府への反対はどう変わったか」は記述で問われやすいところです。武力から言論へ、を軸にして、自分の言葉で説明できるようにしておくと安心です。
3国会を開く約束と2つの政党
運動が広がる中で、1880年、愛国社という全国的な団体を中心に、全国の有志が大阪(今の大阪府)に集まりました。そこでつくられたのが国会期成同盟です。国会期成同盟は、国会を開くよう求める請願書を政府に出しました。
ところが、政府は請願書を受け取りません。それどころか集会条例を出して、運動を取りしまりました。集会条例は、政府が自由民権運動をおさえるため、集会や結社をきびしく規制した法令です。運動が大きくなるほど、政府はそれをおさえようとしたわけです。
このころ、民間でも憲法の案がつくられていきます。これを私擬憲法といいます。たとえば、五日市(今の東京都あきる野市)の農村の青年たちがつくった五日市憲法草案は、人権の保障にきめ細かく配慮しているのが特徴です。国会を開くことだけでなく、どんな憲法がよいのかまで、民間で考えていたのです。
1881年には、北海道の開拓使の持ち物の払い下げが世論のきびしい批判を受け、計画が中止されました。自由民権運動の高まりに対して、政府はこの年、10年後の1890年に国会を開くことを約束します。これが国会開設の勅諭です。勅諭とは、天皇が直接出したさとしのことです。
同じとき、政府の中でも、国会開設や憲法制定をめぐって対立が起きていました。早く国会を開くことを主張していたのが大隈重信です。その大隈は、伊藤博文らによって政府から追い出されました。これを明治十四年の政変といいます。伊藤博文は、次の単元で中心になる人物です。
国会が開かれることが決まったので、それにそなえて政党がつくられました。1881年に板垣退助を党首としてできたのが自由党、翌年の1882年に、政府を追い出された大隈重信が中心となってつくったのが立憲改進党です。2つの政党のちがいは、次の表のとおりです。
自由党 | 立憲改進党 | |
|---|---|---|
中心の人物 | 板垣退助(党首) | 大隈重信 |
目指した政治 | フランス流の自由主義 | イギリス流の議会政治 |
進め方 | 急進的(目的を急いで実現させようとする) | 漸進的(順を追ってだんだんに進む) |
支持した人々 | 士族や豪農・豪商など | 都市の商工業者や知識人など |
自由党は全国的な政党でした。大隈重信は、東京専門学校という学校もつくっています。これが、のちの早稲田大学です。
自由党をつくったあと、板垣は演説をしてまわっていた途中、岐阜(今の岐阜県)で襲われてけがをします。このとき「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を叫んだと伝えられています。ただ、秩父事件などが鎮圧される中で、運動はおとろえていきました。
まとめ 政府を去った2人から、国会を開く約束まで
この単元の流れを一本の線でつなぐと、こうなります。
征韓論をめぐる対立で板垣退助・西郷隆盛が政府を去る → 1874年 民撰議院設立の建白書(板垣・言論)→ 自由民権運動が始まる → 各地で士族の反乱 → 1877年 西南戦争(西郷・武力)→ 武力の反乱が終わり、運動の中心は言論へ → 国会期成同盟 → 国会開設の勅諭(10年後に国会)→ 自由党(板垣)・立憲改進党(大隈)
武力ではなく言論で、国会を開いて、人々が政治に参加することを求めた運動。それが自由民権運動です。国会を開く約束をした政府が、そのためにどんな憲法をつくったのかが、次の単元「大日本帝国憲法と帝国議会」のテーマです。
年表
この単元でテストに出る年号は、1874年と1877年の2つです。国会期成同盟、国会開設の勅諭、2つの政党は、年号よりも「西南戦争のあと」の順番で並べられるようにしておきましょう。
年 | 出来事 |
|---|---|
1874 | 板垣退助らが民撰議院設立の建白書を出す |
1877 | 西郷隆盛が率いた西南戦争が起こる |
用語のまとめ
用語 | 種類 | 意味 |
|---|---|---|
征韓論 | 主張 | 朝鮮に兵を送ろうとする主張。これをめぐる対立で西郷隆盛や板垣退助たちが政府を去った |
藩閥 | 派閥 | 特定の藩の出身者が、政府の大事な役職を独占してつくった派閥 |
民撰議院設立の建白書 | 意見書 | 1874年、板垣退助らが政府に出した、国民が選んだ議員でつくる議会(国会)を開くよう求めた意見書 |
自由民権運動 | 運動 | 国民の政治参加を求めて、国会の開設などを要求した運動 |
立志社 | 団体 | 板垣退助らが高知につくった団体。のちに自由民権運動の中心になった |
士族 | 呼び名 | もとの武士 |
士族の反乱 | 反乱 | 特権を失った士族が、各地で起こした反乱 |
私学校 | 学校 | 西郷隆盛が鹿児島につくった学校 |
西南戦争 | 反乱 | 1877年、西郷隆盛が率いた、鹿児島の士族を中心とする反乱。士族の反乱の中で最大で最後 |
愛国社 | 団体 | 国会期成同盟をつくるときの中心になった、全国的な団体 |
国会期成同盟 | 団体 | 全国の有志が大阪に集まってつくり、国会を開くよう求める請願書を政府に出した団体 |
集会条例 | 法令 | 政府が自由民権運動をおさえるため、集会や結社をきびしく規制した法令 |
私擬憲法 | 憲法の案 | 民間でつくられた憲法の案 |
五日市憲法草案 | 憲法の案 | 五日市(今の東京都あきる野市)の農村の青年たちがつくった憲法の案 |
国会開設の勅諭 | 天皇のさとし | 10年後に国会を開くことを約束した、天皇が直接出したさとし |
明治十四年の政変 | 出来事 | 早く国会を開くことを主張していた大隈重信が、伊藤博文らによって政府から追い出された出来事 |
自由党 | 政党 | 板垣退助が党首。フランス流の急進的な自由主義を唱えた |
立憲改進党 | 政党 | 大隈重信が中心。イギリス流の議会政治と、漸進的な改革を主張した |
板垣退助 | 人物 | 土佐藩(今の高知県)出身。建白書を出し、自由党の党首になった |
西郷隆盛 | 人物 | 薩摩藩(今の鹿児島県)出身。西南戦争で政府軍に敗れた |
大隈重信 | 人物 | 明治十四年の政変で政府を追い出され、立憲改進党をつくった。東京専門学校(のちの早稲田大学)もつくった |
よくある間違い
自由党は板垣退助、立憲改進党は大隈重信です。 人物と政党の組み合わせを入れかえた選択肢がよく出ます。フランス流で急いで進めるのが自由党、イギリス流でだんだんに進めるのが立憲改進党、と中身もいっしょに覚えると取り違えにくくなります。
自由民権運動は、西南戦争より前に始まっています。 きっかけは1874年の民撰議院設立の建白書で、西南戦争は1877年です。西南戦争のあとに変わったのは、反対の中心が武力から言論へ移り、加わる人が広がったことでした。
西南戦争は、士族の反乱の中で「最大で最後」の反乱です。 勝ったのは徴兵中心の政府軍で、このあと武力の反抗は終わりました。
国会開設の勅諭は、国会を開くことの「約束」です。 約束の中身は10年後の国会開設でした。実際に国会が開かれるまでの流れは、次の単元で扱います。
大隈重信が立憲改進党をつくったのは、政府を追い出されたあとです。 明治十四年の政変 → 立憲改進党の結成、という順番が並べかえ問題で問われます。
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重要語句 板垣退助、民撰議院設立の建白書、西南戦争、国会期成同盟、大隈重信