中学社会・歴史・開国と近代日本の歩み・No.67

大日本帝国憲法と帝国議会

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解説

明治時代の中ごろ、日本は初めて近代的な憲法をもち、議会を開く国になりました。憲法づくりの中心にいたのは伊藤博文で、手本にしたのはドイツ(プロイセン)の憲法です。その中身は、天皇に大きな権限を集め、国民の権利には「法律の範囲内で」という条件をつけたものでした。

国会を開く約束と、憲法づくりの始まり

前の単元で見たように、自由民権運動が高まる中で、政府は1881年に国会開設の勅諭を出し、1890年に国会を開くと約束しました。それにそなえて、板垣退助の自由党や、大隈重信の立憲改進党がつくられています。

国会を開くには、その前に国の政治のいちばんもとになるきまり、つまり憲法が要ります。政府は、1890年までに憲法をつくることになりました。

1伊藤博文のヨーロッパ調査と、1885年の内閣制度

憲法づくりの中心になったのが、長州藩(今の山口県)出身の伊藤博文です。政府は1882年から1883年にかけて伊藤をヨーロッパへ送り、各国の憲法を調べさせました。伊藤は1年以上ヨーロッパにいて、ドイツやオーストリア、イギリスやベルギーなどを回っています。

その中で手本にしたのが、君主の力が強いドイツ(プロイセン)の憲法でした。辞典などでもこの2つの名前を並べて書いているので、どちらで聞かれても答えられるようにしておくと安心です。

国会が開かれるのにそなえて、政府は自分たちのしくみも整えます。それまでの太政官制をやめ、1885年に内閣制度をつくりました。内閣は、それぞれの省の大臣と、それをまとめる内閣総理大臣でつくる組織です。総理大臣をリーダーにした、大臣たちのチームだと思えばわかりやすいでしょう。

そして、初代の内閣総理大臣になったのは伊藤博文です。テストでとてもよく問われる組み合わせです。

憲法の草案は、伊藤博文を中心に、井上毅(いのうえこわし)らがつくりました。草案を話し合うために枢密院がつくられ、伊藤はその議長に移って、話し合いにあたります。憲法の中身は、発布されるまで国民には知らされませんでした。

21889年、大日本帝国憲法の発布 天皇主権と臣民の権利

1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。この単元でいちばん大事な年号です。憲法は、天皇が国民に与えるという形で出されました。君主が定めて国民に与える形の憲法を、欽定憲法といいます。国民が話し合ってつくった憲法ではありません。

発布のときの総理大臣は、伊藤博文ではなく黒田清隆でした。同じ年には、衆議院の選挙のきまりもつくられています。

この憲法の中心は、主権が天皇にあることです。主権とは、国の政治のあり方を最終的に決める力のことで、これを天皇主権といいます。憲法には日本は天皇がおさめると書かれ、天皇は国の元首として、国をおさめる権限、つまり統治権をもっていました。今の日本国憲法では、主権は国民にあります。

法律をつくる力も天皇にあり、帝国議会はそれに同意するという形でした。この同意のことを協賛といいます。法律や予算は、帝国議会の同意がないと成立しませんでした。陸軍・海軍を指揮する最高の権限も天皇がもち、政府も口出しできませんでした。

国民は臣民とよばれました。言論や出版、集会や信教の自由なども認められましたが、それは法律の範囲内でのことです。法律で決めれば、その権利を制限することもできました。権利は認められたけれど制限つきだった、という点が記述問題でねらわれます。

臣民には義務もありました。軍隊に入る兵役の義務と、税を納める納税の義務です。

3帝国議会と選挙、教育勅語

憲法の発布の次の年、1890年に、約束どおり第1回の帝国議会が開かれました。場所は東京(今の東京都)にあった、木造の仮の議事堂です。このときの総理大臣は山県有朋で、徴兵令の制定に力を尽くした人です。

帝国議会は、貴族院と衆議院の2つの院でできていて、2つの院の力はほぼ同じでした。

  • 貴族院は、皇族や華族、それから天皇が任命した人などでつくられました。皇族は天皇の一族、華族は四民平等のところで出てきた、もとの公家や大名などの身分です
  • 衆議院は、国民から選挙で選ばれた議員でつくられました

今の国会は衆議院と参議院なので、名前を取り違えないようにしましょう。

では、衆議院の選挙で投票できたのはどんな人だったのでしょうか。それは、直接国税を15円以上納める、満25歳以上の男子だけでした。直接国税とは、地租や所得税のことです。選挙権をもつ人は約45万人で、人口の約1.1%、およそ100人に1人にすぎません。このように税金の額などで選挙権を制限する選挙を、制限選挙といいます。

選挙権の条件

内容

税金

直接国税(地租や所得税)を15円以上納める

年れい

満25歳以上

性別

男子だけ

1890年には初めての総選挙が行われ、300人の議員が選ばれました。なお、のちにできた民法では、家の長である戸主が家族を率いる「家」の制度が定められています。

議会が開かれたといっても、議会の力は天皇の大きな権限によって制限されていました。それでも最初の議会では、自由党や改進党など、政府と対立する政党が衆議院の半分より多くを占めます。こうした政党を民党とよび、議会では政府と政党の対立が続いていきました。

議会が開かれたのと同じ1890年には、教育勅語が出されました。正式な名前は「教育ニ関スル勅語」です。勅語とは天皇のことばのことで、教育勅語は天皇のことばとして出されました。父母への孝行などの道徳とともに、いざというときは皇室と国のために尽くすことを求める内容です。

主君に忠義を尽くし国を愛する忠君愛国や、忠孝の道徳が、国民の教育の中心にすえられました。写しは全国の学校に配られ、学校の式で読み上げられました。草案づくりには、憲法と同じく井上毅もかかわっています。

まとめ 憲法と議会をもつ国へ

この単元の流れを一本の線でつなぐと、こうなります。

国会を開く約束 → 伊藤博文がヨーロッパで憲法を調べる(ドイツ(プロイセン)を手本に) → 1885年 内閣制度(初代の内閣総理大臣は伊藤博文) → 1889年 大日本帝国憲法の発布(天皇主権・臣民の権利は法律の範囲内) → 帝国議会(貴族院と衆議院)が開かれ、教育勅語も出される

こうして日本は、憲法にもとづいて議会で政治を行う立憲制の国家になりました。当時、アジアでただ一つの立憲制の国家です。憲法と議会ができた日本は、次に、欧米と対等になるための条約の見直しに取り組んでいきます。

年表

この単元でテストに出る年号は、1885年と1889年の2つです。内閣制度のほうが憲法より4年先にできている、という順番もあわせて押さえておきましょう。

年

出来事

1885

内閣制度ができ、伊藤博文が初代の内閣総理大臣になる

1889

大日本帝国憲法が発布される

用語のまとめ

用語

種類

意味

伊藤博文

人物

長州藩(今の山口県)出身。ヨーロッパで憲法を調べ、憲法づくりの中心になった。初代の内閣総理大臣

ドイツ(プロイセン)

国

君主の力が強い憲法をもっていた国。大日本帝国憲法の手本になった

内閣制度

制度

1885年にできた、各省の大臣と、それをまとめる内閣総理大臣でつくる政府のしくみ

井上毅

人物

伊藤博文を中心とする憲法の草案づくりにかかわった人物。教育勅語の草案にもかかわった

枢密院

機関

憲法の草案を話し合うためにつくられた所。伊藤博文が議長になった

大日本帝国憲法

憲法

1889年に発布された憲法。天皇が国民に与える形で出された

欽定憲法

憲法の種類

君主が定めて国民に与える形の憲法

天皇主権

考え方

主権(国の政治のあり方を最終的に決める力)が天皇にあること

協賛

議会の役割

帝国議会が法律や予算に同意すること

臣民

呼び名

大日本帝国憲法での国民の呼び名。権利は法律の範囲内で認められた

帝国議会

議会

貴族院と衆議院の2つの院でできた議会

貴族院

議院

皇族・華族や、天皇が任命した人などでつくられた院

衆議院

議院

国民から選挙で選ばれた議員でつくられた院

制限選挙

選挙のしかた

税金の額などで選挙権を制限する選挙。最初は直接国税15円以上を納める満25歳以上の男子だけ

民党

政党の呼び名

最初の議会で、政府と対立した自由党や改進党などの政党

教育勅語

天皇のことば

忠君愛国や父母への孝行などの道徳を示し、教育の中心とされた。正式な名前は「教育ニ関スル勅語」

立憲制の国家

国のあり方

憲法にもとづいて議会で政治を行う国。当時のアジアでは日本だけだった

よくある間違い

内閣制度(1885年)は、憲法(1889年)より先にできました。 並べかえ問題では、この順番を逆にした選択肢がひっかけになります。

初代の内閣総理大臣は伊藤博文、憲法発布のときの総理大臣は黒田清隆です。 「発布のときの総理大臣」と聞かれたら、伊藤博文ではありません。

手本にした憲法は、君主の力が強いドイツ(プロイセン)の憲法です。 ドイツとプロイセン、どちらの名前で問われても答えられるようにしておきます。

法律や予算は、帝国議会の同意(協賛)がないと成立しませんでした。 法律をつくる力そのものは天皇にあった、という組み合わせで問われます。

臣民の権利は「法律の範囲内で」認められました。 認められたことと、法律で制限できたことの両方を書けると、記述問題で点になります。

帝国議会は貴族院と衆議院の2つです。 今の国会の衆議院と参議院とは、片方の名前がちがいます。

選挙権は、直接国税15円以上を納める、満25歳以上の男子だけでした。 15円と25歳の数字、そして男子だけだった点がセットで問われます。

日本は、当時アジアでただ一つの立憲制の国家になりました。 「当時」「立憲制の国家」という言葉をそのまま使って覚えます。

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重要語句 伊藤博文、内閣制度、貴族院、衆議院、教育勅語

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