中学社会・歴史・開国と近代日本の歩み・No.68

帝国主義と条約改正

動画で学ぶ

動画は準備中です

動画は準備中です。

解説

幕末に結んだ不平等な条約を改めることは、明治政府にとって40年もかかる長い課題でした。そのあいだ世界では、欧米の強い国々が植民地を広げていました。不平等な中身の2つを、日本がいつ、どの外務大臣のときに改めることができたのか、順に追っていきます。

出発点は、幕末の不平等条約

1858年の日米修好通商条約は、日本にとって不利な不平等条約でした。不平等なところは2つあります。

1つ目は、領事裁判権を認めたことです。日本で罪をおかした外国人を、日本の法律で裁くことができません。その外国人の国の領事が、自分の国の法律で裁きます。

2つ目は、日本に関税自主権がなかったことです。関税とは、外国から入ってくる品物(輸入品)にかける税のことで、関税自主権は、その税の割合を自分の国で決められる権利です。日本にはこの権利がなく、関税の割合を日本だけで決めることができませんでした。

江戸幕府が結んだこの不平等条約を改めることを、条約改正といいます。明治政府は、はじめから条約改正をめざしていました。1871年の岩倉使節団も条約改正を求めましたが、アメリカに断られています。ここから、条約改正は40年かかる仕事になっていきます。

1帝国主義の時代 列強が植民地を広げる中で

19世紀の後半、イギリスやフランス、ドイツ、アメリカなどの欧米の強い国々は、軍事力を背景に、ほかの国を植民地にしていきました。植民地とは、ほかの国に支配された土地のことです。こうした欧米の強い国々を列強と呼びます。

軍事力を背景に、ほかの国を植民地にしていく政策を帝国主義といいます。列強は、世界を分け合うように、おたがいに争っていました。

日本は、そんな帝国主義の時代の中で、欧米の国々と対等な関係を結ぶことをめざして、条約改正に取り組みます。この単元の題名が「帝国主義」と「条約改正」の2つを並べているのは、このつながりがあるからです。列強・植民地・帝国主義の3つの言葉は、意味を説明させる問題でもよく出ます。

2井上馨の欧化政策と鹿鳴館、ノルマントン号事件

条約改正の交渉にあたったのが、井上馨です。井上は外務卿(1885年に内閣制度ができてからは外務大臣)として交渉を進め、まず領事裁判権をなくそうとしました。

そのために井上がとったのが欧化政策です。欧米の風俗や習慣をまねて、日本が開けた国になったことを外国に見せようとした政策でした。条約改正の交渉を少しでも進めるためです。

その象徴が鹿鳴館です。1883年、東京の日比谷(今の東京都千代田区)に、鹿鳴館という洋風の建物ができました。ここで外国の客をもてなし、日本と外国の上流の人々が舞踏会などを開きました。ただ、こうした欧化政策は、うわべだけのまねだと、きびしく批判されます。

井上が交渉を進めていた1886年に、ある事件が起きました。イギリスの船ノルマントン号が、和歌山県の沖で沈んだのです。イギリス人の船長や船員はボートで脱出しましたが、日本人の乗客は全員なくなりました。これがノルマントン号事件です。

船長は、イギリスの領事の裁判で、はじめ無罪になりました。日本側が訴えてもう一度裁かれましたが、禁錮3か月だけで、つぐない(賠償)もありませんでした。日本人の乗客がなくなった事件なのに、日本の法律で船長を裁くことができなかったのです。これが領事裁判権でした。国民の怒りは高まり、領事裁判権をなくせという声が強まります。事件と領事裁判権のつながりは、記述の問題でも聞かれます。

井上の改正案には、外国人を裁判官にするという条件がついていました。これに国内で強い反対が起き、交渉は失敗して、1887年に井上は辞めます。欧化政策が批判されたことと、この条件に反対が強まったことは、別々のことです。次の外務大臣の大隈重信(立憲改進党の大隈)も交渉しましたが、爆弾を投げられてけがをし、交渉は止まりました。

3陸奥宗光と小村寿太郎 1894年の領事裁判権の撤廃、1911年の関税自主権の回復

では、なぜ最後には条約改正がうまくいったのでしょうか。理由として、2つのことが並べて挙げられます。

1つ目は、日本の近代化です。日本は憲法をつくり、議会を開くなど、近代化を進めました。そうした日本が、欧米に認められるようになったのです。2つ目は、イギリスの事情です。イギリスはロシアと対立していて、ロシアをおさえるために日本に近づき、条約改正に応じたと考えられています。

そして1894年、領事裁判権の撤廃が実現します。外務大臣の陸奥宗光のとき、日本はイギリスとの条約で、領事裁判権をなくすことに成功しました。この条約を日英通商航海条約といい、イギリスのロンドンで結ばれました。そのあと、ほかの国々とも同じような条約を結んでいきます。領事裁判権の撤廃は、日本の近代化が欧米に認められたことを意味し、日本の国際的な地位も上がりました。

この条約が結ばれたのは、次の単元で学ぶ日清戦争の直前です。新しい条約が実際に実施されたのは5年後の1899年ですが、テストでは「領事裁判権の撤廃は1894年」と答えます。治外法権の撤廃と書く本もあり、どちらも同じことを指しています。このとき関税自主権のほうは、一部しか戻りませんでした。

ここで年が少し先に飛びます。陸奥宗光のときに結んだ条約は、1911年に期限が来ることになっていました。それに合わせて、外務大臣の小村寿太郎が新しい条約の交渉をします。1911年、アメリカのワシントンで新しい日米通商航海条約が結ばれ、続いてイギリスなどヨーロッパの国々とも新しい条約を結びました。こうして、残っていた関税自主権も取り戻されました。これが1911年、関税自主権の回復です。

条約改正は、ここで達成されました。日本は、欧米の国々と条約の上で対等の立場になったのです。幕末の開国から数えると、およそ半世紀、約50年。岩倉使節団から数えても40年かかった、外交の大きな課題でした。

まとめ 不平等条約から、条約の上での対等まで

この単元の流れを一本の線でつなぐと、こうなります。

不平等条約(領事裁判権を認める・関税自主権がない) → 帝国主義の時代に条約改正をめざす → 井上馨の欧化政策・鹿鳴館 → ノルマントン号事件で領事裁判権をなくせという声 → 1894年 領事裁判権の撤廃(陸奥宗光) → 1911年 関税自主権の回復(小村寿太郎) → 欧米の国々と条約の上で対等に

条約改正は、明治のはじめから40年ほどかかった、長い外交の課題でした。1894年に領事裁判権の撤廃、1911年に関税自主権の回復を果たして、日本は欧米の国々と条約の上で対等の立場になります。領事裁判権の撤廃に成功したのと同じ1894年、日本は清と戦争を始めることになります。

年表

この単元でテストに出る年号は、1894年と1911年の2つです。鹿鳴館とノルマントン号事件は、年号より「1894年より前、井上馨のころ」という順番で押さえておくと整理しやすくなります。

年

出来事

1894

外務大臣の陸奥宗光のとき、日英通商航海条約で領事裁判権の撤廃に成功する

1911

外務大臣の小村寿太郎のとき、関税自主権の回復を果たす

用語のまとめ

用語

種類

意味

不平等条約

条約

日本に不利な条約。領事裁判権を認め、関税自主権がなかった

領事裁判権

権利

日本で罪をおかした外国人を、その国の領事が自分の国の法律で裁く権利。日本の法律では裁けない

関税

税

外国から入ってくる品物(輸入品)にかける税

関税自主権

権利

関税の割合を自分の国で決められる権利。幕末の条約では日本になかった

条約改正

外交の課題

江戸幕府が結んだ不平等条約を改めること。明治政府がはじめからめざした

岩倉使節団

使節団

条約改正を求めたが、アメリカに断られた

列強

国々

欧米の強い国々

植民地

土地

ほかの国に支配された土地

帝国主義

政策

軍事力を背景に、ほかの国を植民地にしていく政策

井上馨

人物

条約改正の交渉にあたり、欧化政策をとった。交渉は失敗した

欧化政策

政策

欧米の風俗や習慣をまねて、日本が開けた国になったことを外国に見せようとした政策

鹿鳴館

建物

東京の日比谷にできた洋風の建物。外国の客をもてなし、舞踏会などを開いた。欧化政策の象徴

ノルマントン号事件

事件

イギリスの船が和歌山県の沖で沈み、日本人の乗客が全員なくなった事件。領事の裁判で船長がはじめ無罪になり、領事裁判権をなくせという声が強まった

陸奥宗光

人物

1894年に領事裁判権の撤廃に成功したときの外務大臣

日英通商航海条約

条約

1894年にイギリスと結んだ条約。領事裁判権を撤廃した

小村寿太郎

人物

1911年に関税自主権の回復を果たしたときの外務大臣

日米通商航海条約

条約

1911年にアメリカと結んだ新しい条約。続いてヨーロッパの国々とも新しい条約を結び、関税自主権を回復した

よくある間違い

1894年は領事裁判権、1911年は関税自主権です。 外務大臣も、1894年が陸奥宗光、1911年が小村寿太郎です。領事裁判権は裁判の話、関税自主権は税の話と分けておくと、年と人物の取り違えを防げます。

1894年は「領事裁判権の撤廃に成功した」年です。 新しい条約が実際に実施されたのは1899年ですが、答えるときの年号は1894年です。

ノルマントン号事件とつながるのは、領事裁判権です。 日本の法律で船長を裁けなかったことが、領事裁判権をなくせという声につながりました。関税自主権を選ぶ答えがひっかけとして出ます。

欧化政策が批判されたことと、井上馨の交渉が失敗した理由は、別々に書きます。 交渉の失敗は、外国人を裁判官にするという条件に、国内で強い反対が起きたためです。

領事裁判権を撤廃できた理由は、2つを並べて書きます。 日本の近代化が欧米に認められたこと、そしてロシアと対立していたイギリスが日本に近づいたことです。条約が結ばれたのは日清戦争の直前で、順番は条約のほうが先です。

1911年に日本が得たのは、欧米の国々と「条約の上で」対等の立場です。 記述では「条約の上で」の一言まで書けると、答えが正確になります。

プリントと動画で確認しよう

このテーマの単語テストと問題集は、下のボタンからダウンロードできます。答えと解説つきです。

流れをもう一度確認したいときはアニメーション編、くわしい理由まで知りたいときは詳細解説編の動画をどうぞ。

重要語句 欧化政策、鹿鳴館、ノルマントン号事件、陸奥宗光、小村寿太郎

プリント(PDF)

ショート動画

ショート動画は準備中です。

「開国と近代日本の歩み」のテーマ一覧にもどる