解説
幕末に結んだ不平等な条約を改めることは、明治政府にとって40年もかかる長い課題でした。そのあいだ世界では、欧米の強い国々が植民地を広げていました。不平等な中身の2つを、日本がいつ、どの外務大臣のときに改めることができたのか、順に追っていきます。
出発点は、幕末の不平等条約
1858年の日米修好通商条約は、日本にとって不利な不平等条約でした。不平等なところは2つあります。
1つ目は、領事裁判権を認めたことです。日本で罪をおかした外国人を、日本の法律で裁くことができません。その外国人の国の領事が、自分の国の法律で裁きます。
2つ目は、日本に関税自主権がなかったことです。関税とは、外国から入ってくる品物(輸入品)にかける税のことで、関税自主権は、その税の割合を自分の国で決められる権利です。日本にはこの権利がなく、関税の割合を日本だけで決めることができませんでした。
江戸幕府が結んだこの不平等条約を改めることを、条約改正といいます。明治政府は、はじめから条約改正をめざしていました。1871年の岩倉使節団も条約改正を求めましたが、アメリカに断られています。ここから、条約改正は40年かかる仕事になっていきます。
1帝国主義の時代 列強が植民地を広げる中で
19世紀の後半、イギリスやフランス、ドイツ、アメリカなどの欧米の強い国々は、軍事力を背景に、ほかの国を植民地にしていきました。植民地とは、ほかの国に支配された土地のことです。こうした欧米の強い国々を列強と呼びます。
軍事力を背景に、ほかの国を植民地にしていく政策を帝国主義といいます。列強は、世界を分け合うように、おたがいに争っていました。
日本は、そんな帝国主義の時代の中で、欧米の国々と対等な関係を結ぶことをめざして、条約改正に取り組みます。この単元の題名が「帝国主義」と「条約改正」の2つを並べているのは、このつながりがあるからです。列強・植民地・帝国主義の3つの言葉は、意味を説明させる問題でもよく出ます。
2井上馨の欧化政策と鹿鳴館、ノルマントン号事件
条約改正の交渉にあたったのが、井上馨です。井上は外務卿(1885年に内閣制度ができてからは外務大臣)として交渉を進め、まず領事裁判権をなくそうとしました。
そのために井上がとったのが欧化政策です。欧米の風俗や習慣をまねて、日本が開けた国になったことを外国に見せようとした政策でした。条約改正の交渉を少しでも進めるためです。
その象徴が鹿鳴館です。1883年、東京の日比谷(今の東京都千代田区)に、鹿鳴館という洋風の建物ができました。ここで外国の客をもてなし、日本と外国の上流の人々が舞踏会などを開きました。ただ、こうした欧化政策は、うわべだけのまねだと、きびしく批判されます。
井上が交渉を進めていた1886年に、ある事件が起きました。イギリスの船ノルマントン号が、和歌山県の沖で沈んだのです。イギリス人の船長や船員はボートで脱出しましたが、日本人の乗客は全員なくなりました。これがノルマントン号事件です。
船長は、イギリスの領事の裁判で、はじめ無罪になりました。日本側が訴えてもう一度裁かれましたが、禁錮3か月だけで、つぐない(賠償)もありませんでした。日本人の乗客がなくなった事件なのに、日本の法律で船長を裁くことができなかったのです。これが領事裁判権でした。国民の怒りは高まり、領事裁判権をなくせという声が強まります。事件と領事裁判権のつながりは、記述の問題でも聞かれます。
井上の改正案には、外国人を裁判官にするという条件がついていました。これに国内で強い反対が起き、交渉は失敗して、1887年に井上は辞めます。欧化政策が批判されたことと、この条件に反対が強まったことは、別々のことです。次の外務大臣の大隈重信(立憲改進党の大隈)も交渉しましたが、爆弾を投げられてけがをし、交渉は止まりました。
3陸奥宗光と小村寿太郎 1894年の領事裁判権の撤廃、1911年の関税自主権の回復
では、なぜ最後には条約改正がうまくいったのでしょうか。理由として、2つのことが並べて挙げられます。
1つ目は、日本の近代化です。日本は憲法をつくり、議会を開くなど、近代化を進めました。そうした日本が、欧米に認められるようになったのです。2つ目は、イギリスの事情です。イギリスはロシアと対立していて、ロシアをおさえるために日本に近づき、条約改正に応じたと考えられています。
そして1894年、領事裁判権の撤廃が実現します。外務大臣の陸奥宗光のとき、日本はイギリスとの条約で、領事裁判権をなくすことに成功しました。この条約を日英通商航海条約といい、イギリスのロンドンで結ばれました。そのあと、ほかの国々とも同じような条約を結んでいきます。領事裁判権の撤廃は、日本の近代化が欧米に認められたことを意味し、日本の国際的な地位も上がりました。
この条約が結ばれたのは、次の単元で学ぶ日清戦争の直前です。新しい条約が実際に実施されたのは5年後の1899年ですが、テストでは「領事裁判権の撤廃は1894年」と答えます。治外法権の撤廃と書く本もあり、どちらも同じことを指しています。このとき関税自主権のほうは、一部しか戻りませんでした。
ここで年が少し先に飛びます。陸奥宗光のときに結んだ条約は、1911年に期限が来ることになっていました。それに合わせて、外務大臣の小村寿太郎が新しい条約の交渉をします。1911年、アメリカのワシントンで新しい日米通商航海条約が結ばれ、続いてイギリスなどヨーロッパの国々とも新しい条約を結びました。こうして、残っていた関税自主権も取り戻されました。これが1911年、関税自主権の回復です。
条約改正は、ここで達成されました。日本は、欧米の国々と条約の上で対等の立場になったのです。幕末の開国から数えると、およそ半世紀、約50年。岩倉使節団から数えても40年かかった、外交の大きな課題でした。
まとめ 不平等条約から、条約の上での対等まで
この単元の流れを一本の線でつなぐと、こうなります。
不平等条約(領事裁判権を認める・関税自主権がない) → 帝国主義の時代に条約改正をめざす → 井上馨の欧化政策・鹿鳴館 → ノルマントン号事件で領事裁判権をなくせという声 → 1894年 領事裁判権の撤廃(陸奥宗光) → 1911年 関税自主権の回復(小村寿太郎) → 欧米の国々と条約の上で対等に
条約改正は、明治のはじめから40年ほどかかった、長い外交の課題でした。1894年に領事裁判権の撤廃、1911年に関税自主権の回復を果たして、日本は欧米の国々と条約の上で対等の立場になります。領事裁判権の撤廃に成功したのと同じ1894年、日本は清と戦争を始めることになります。
年表
この単元でテストに出る年号は、1894年と1911年の2つです。鹿鳴館とノルマントン号事件は、年号より「1894年より前、井上馨のころ」という順番で押さえておくと整理しやすくなります。
年 | 出来事 |
|---|---|
1894 | 外務大臣の陸奥宗光のとき、日英通商航海条約で領事裁判権の撤廃に成功する |
1911 | 外務大臣の小村寿太郎のとき、関税自主権の回復を果たす |
用語のまとめ
用語 | 種類 | 意味 |
|---|---|---|
不平等条約 | 条約 | 日本に不利な条約。領事裁判権を認め、関税自主権がなかった |
領事裁判権 | 権利 | 日本で罪をおかした外国人を、その国の領事が自分の国の法律で裁く権利。日本の法律では裁けない |
関税 | 税 | 外国から入ってくる品物(輸入品)にかける税 |
関税自主権 | 権利 | 関税の割合を自分の国で決められる権利。幕末の条約では日本になかった |
条約改正 | 外交の課題 | 江戸幕府が結んだ不平等条約を改めること。明治政府がはじめからめざした |
岩倉使節団 | 使節団 | 条約改正を求めたが、アメリカに断られた |
列強 | 国々 | 欧米の強い国々 |
植民地 | 土地 | ほかの国に支配された土地 |
帝国主義 | 政策 | 軍事力を背景に、ほかの国を植民地にしていく政策 |
井上馨 | 人物 | 条約改正の交渉にあたり、欧化政策をとった。交渉は失敗した |
欧化政策 | 政策 | 欧米の風俗や習慣をまねて、日本が開けた国になったことを外国に見せようとした政策 |
鹿鳴館 | 建物 | 東京の日比谷にできた洋風の建物。外国の客をもてなし、舞踏会などを開いた。欧化政策の象徴 |
ノルマントン号事件 | 事件 | イギリスの船が和歌山県の沖で沈み、日本人の乗客が全員なくなった事件。領事の裁判で船長がはじめ無罪になり、領事裁判権をなくせという声が強まった |
陸奥宗光 | 人物 | 1894年に領事裁判権の撤廃に成功したときの外務大臣 |
日英通商航海条約 | 条約 | 1894年にイギリスと結んだ条約。領事裁判権を撤廃した |
小村寿太郎 | 人物 | 1911年に関税自主権の回復を果たしたときの外務大臣 |
日米通商航海条約 | 条約 | 1911年にアメリカと結んだ新しい条約。続いてヨーロッパの国々とも新しい条約を結び、関税自主権を回復した |
よくある間違い
1894年は領事裁判権、1911年は関税自主権です。 外務大臣も、1894年が陸奥宗光、1911年が小村寿太郎です。領事裁判権は裁判の話、関税自主権は税の話と分けておくと、年と人物の取り違えを防げます。
1894年は「領事裁判権の撤廃に成功した」年です。 新しい条約が実際に実施されたのは1899年ですが、答えるときの年号は1894年です。
ノルマントン号事件とつながるのは、領事裁判権です。 日本の法律で船長を裁けなかったことが、領事裁判権をなくせという声につながりました。関税自主権を選ぶ答えがひっかけとして出ます。
欧化政策が批判されたことと、井上馨の交渉が失敗した理由は、別々に書きます。 交渉の失敗は、外国人を裁判官にするという条件に、国内で強い反対が起きたためです。
領事裁判権を撤廃できた理由は、2つを並べて書きます。 日本の近代化が欧米に認められたこと、そしてロシアと対立していたイギリスが日本に近づいたことです。条約が結ばれたのは日清戦争の直前で、順番は条約のほうが先です。
1911年に日本が得たのは、欧米の国々と「条約の上で」対等の立場です。 記述では「条約の上で」の一言まで書けると、答えが正確になります。
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重要語句 欧化政策、鹿鳴館、ノルマントン号事件、陸奥宗光、小村寿太郎