解説
1600年の関ヶ原の戦いから3年後、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸に幕府を開きました。ここから260年以上続く江戸時代が始まります。戦いに勝ったあと、家康は全国の大名をどう従えたのか。テストでは、勝ち方と治め方の両方が問われます。
家康はどこから来たか 三河から江戸へ
家康が生まれたのは、三河、今で言うと愛知県の東部にあった小さな大名の家です。幼いころは、今の静岡県のあたりを治めていた今川氏のもとで、人質として育ちました。はじめから強い大名だったわけではないんですね。
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られると、家康は今川氏から独立して、織田信長と手を組みます。長篠の戦いで信長と一緒に武田の軍と戦ったのも家康でした。
信長が亡くなったあと、家康は豊臣秀吉に従う大名になりました。1590年、秀吉は小田原の北条氏をほろぼして全国統一を成しとげます。このとき家康は、北条氏の領地だった関東に移され、江戸(今の東京都)を本拠にしました。広い関東をまかされた家康は、秀吉に従う大名の中でいちばん大きな力をもつようになります。
1598年に秀吉が亡くなったとき、秀吉の子はまだ幼い子どもでした。家康はその中で力をのばしていきます。これに対して、豊臣氏の政権を守ろうとしたのが、秀吉が信頼していた家臣の石田三成です。力をのばす家康と、豊臣氏を守りたい三成。2人の対立が、次の大きな戦いにつながっていきます。
1関ヶ原の戦い(1600年・石田三成)
1600年、全国の大名が家康の側と三成の側に分かれて戦いました。家康の側を東軍、三成を中心とする側を西軍といいます。戦いの場所は、美濃(今の岐阜県)の関ヶ原です。東の江戸と西の大阪のあいだあたりにあります。
戦いの途中で、西軍から東軍に寝返る大名が出ました。これで西軍はくずれ、戦いは1日で決着がつきます。東軍の大勝でした。これが1600年の関ヶ原の戦いです。
負けた三成は捕らえられて処刑され、西軍についた大名は領地を取り上げられたり、減らされたりしました。豊臣氏も、たくさんいる大名の中の一つという立場になります。
関ヶ原の戦いは「天下分け目の戦い」と呼ばれます。勝った家康が全国の実権をにぎり、天下(日本全体)を動かす力がどちらに行くのかが、この1日で分かれたからです。

2江戸幕府のはじまり(1603年・征夷大将軍)と大阪の陣
関ヶ原の戦いから3年後の1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任命されました。征夷大将軍は、武士のかしらとして朝廷から任命される地位です。そして家康は、江戸に幕府を開きます。これが江戸幕府で、ここから江戸時代が始まります。
武士が政治を行う幕府は、鎌倉幕府、室町幕府とありました。江戸幕府は3つ目の幕府です。将軍は人、幕府はその将軍を中心にしたしくみのことで、この2つは区別して覚えます。
家康は、将軍になってわずか2年で、将軍の地位を子の徳川秀忠にゆずりました。将軍はこれから徳川家が代々つぐことを、全国に示したのです。豊臣氏に政権を返すつもりはない、という合図にもなったと考えられています。家康は将軍をゆずったあとも、政治の実権をにぎり続けました。
それでも、大阪城にはまだ秀吉の子がいて、豊臣氏が残っていました。当時は「坂」の字を使って、大坂と書いていた城です。家康は、豊臣氏が建て直した京都の方広寺の鐘に刻まれた文字を問題にして、大阪城を攻めることになります。
1614年の冬、家康は大軍で大阪城を囲みました(冬の陣)。このときはいったん仲直りをしましたが、徳川の側は城のまわりの堀を埋めてしまいます。次の年の1615年の夏、ふたたび戦いになり(夏の陣)、大阪城は落ちて豊臣氏はほろびました。冬の陣と夏の陣をまとめて大阪の陣といいます。
これで徳川家に逆らえるほどの大きな力はなくなりました。ここから、大きな戦いのない時代が長く続いていきます。

3幕藩体制と、親藩・譜代大名・外様大名
将軍は、全国の大名を従えました。江戸時代の大名は、1万石以上の領地を与えられた武士のことです。石は、とれる米の量をはかる単位でしたね。大名は自分の領地の政治を任され、その責任を負わされました。この大名の領地と、それを治めるしくみを藩といいます。
幕府も自分で直接治める土地をもっていましたが、それ以外の土地は、それぞれの藩に治めさせました。幕府と藩、この2つで全国の土地と人々を支配するしくみを幕藩体制といいます。将軍と大名は人、幕府と藩はしくみ、と分けて整理しておくと、用語の問題で迷いません。
幕府は大名を、将軍との関係で3つに分けました。
- 親藩は、徳川家の親せきの大名です。
- 譜代大名は、関ヶ原の戦いの前から徳川家の家来だった大名です。
- 外様大名は、関ヶ原の戦いのころからあとに徳川家に従った大名です。
譜代大名は、領地はそれほど広くありませんが、幕府の重い役目につきました。外様大名には領地のとても広い大名が多かったものの、幕府の役目からは外されていました。
置き場所にも決まった傾向があります。親藩・譜代大名は江戸の近くや大事な場所に、外様大名は江戸から遠い所に置かれることが多かったのです。親藩と譜代は、江戸のまわりや京都・大阪のまわりなど。外様は、九州や東北など遠い所です。江戸や大事な場所のまわりを、信頼できる大名でかためたわけですね。この配置は、テストでは地図と組み合わせて問われます。

まとめ 年の順に一本の線でつなぐ
家康が江戸幕府を開き、全国を治めるしくみをつくるまでを一本の線でつなぐと、こうなります。
三河の小さな大名の家に生まれる → 関東に移り、江戸を本拠にする → 1600年 関ヶ原の戦いで、東軍が三成を中心とする西軍に勝つ → 1603年 征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開く → 大阪の陣で豊臣氏がほろびる → 幕府と藩で全国を治める幕藩体制、親藩・譜代は近く、外様は遠くに置く
戦いの時代が終わり、幕府と藩が全国を治めるしくみができました。ここから260年以上続く江戸時代の始まりです。
年表
年 | 出来事 | ポイント |
|---|---|---|
1600年 | 関ヶ原の戦いで、徳川家康の東軍が石田三成を中心とする西軍に勝つ | 天下分け目の戦い |
1603年 | 徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開く | 江戸時代のはじまり |
用語のまとめ
用語 | 種類 | 意味 |
|---|---|---|
徳川家康 | 人物 | 三河(今の愛知県東部)の大名の家に生まれ、関ヶ原の戦いに勝って江戸幕府を開いた |
石田三成 | 人物 | 豊臣氏の政権を守ろうとした秀吉の家臣。関ヶ原の戦いで家康と戦った |
関ヶ原の戦い | 戦い | 1600年、家康の東軍が三成を中心とする西軍に勝った「天下分け目の戦い」 |
東軍・西軍 | 陣営 | 関ヶ原の戦いでの家康の側(東軍)と三成の側(西軍) |
征夷大将軍 | 地位 | 武士のかしらとして朝廷から任命される地位。家康は1603年に任命された |
江戸幕府 | しくみ | 1603年に家康が江戸に開いた幕府。鎌倉・室町に続く3つ目の幕府 |
徳川秀忠 | 人物 | 家康の子。家康から将軍の地位をゆずられた |
大阪の陣 | 戦い | 家康が大阪城を攻めて豊臣氏をほろぼした戦い。冬の陣と夏の陣の2回 |
藩 | しくみ | 大名の領地と、それを治めるしくみ |
幕藩体制 | しくみ | 幕府と藩で全国の土地と人々を支配するしくみ |
親藩 | 大名の区分 | 徳川家の親せきの大名 |
譜代大名 | 大名の区分 | 関ヶ原の戦いの前から徳川家の家来だった大名。幕府の重い役目についた |
外様大名 | 大名の区分 | 関ヶ原の戦いのころからあとに徳川家に従った大名。江戸から遠い所に置かれることが多かった |
よくある間違い
関ヶ原の戦いが先、征夷大将軍があとです。 1600年に関ヶ原の戦いで勝ち、その3年後の1603年に征夷大将軍に任命されました。並べかえ問題では、この順番がよくひっかけになります。
将軍と幕府、大名と藩は、人としくみの関係です。 将軍と大名は人、幕府と藩はしくみです。「幕藩体制とは何か」と聞かれたら、幕府と藩で全国を治めるしくみ、と答えます。
外様大名は「いつから徳川家に従ったか」で分けます。 外様大名の中には、関ヶ原の戦いで家康の側について戦った大名もたくさんいます。答案では「関ヶ原の戦いのころからあとに徳川家に従った大名」と書けば正確です。
譜代と外様は、役目と置き場所をセットで覚えます。 譜代大名は江戸の近くに置かれて幕府の重い役目につき、外様大名は江戸から遠い所に置かれて役目から外されました。地図の問題では、江戸に近いほうが親藩・譜代です。
関ヶ原の戦いの西軍は「石田三成を中心とする」と書きます。 西軍にはほかにも有力な大名が加わっていました。テストで答えるのは、家康と戦った中心人物の石田三成です。
大阪の陣で豊臣氏がほろびたのは、江戸幕府が開かれたあとです。 関ヶ原の戦いで豊臣氏がほろびたわけではありません。関ヶ原のあとも大阪城に残っていた豊臣氏は、冬の陣と夏の陣の大阪の陣でほろびました。
江戸時代が続いたのは「260年以上」です。 1603年から江戸幕府の終わりまでを数えた長さで、年数そのものを覚える必要はありません。
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重要語句 徳川家康、関ヶ原の戦い、石田三成、幕藩体制、譜代大名