解説
1560年の桶狭間の戦いから1582年の本能寺の変までの20年あまりで、織田信長は全国の統一を大きく前へ進めました。勝ち続けた理由を戦の強さだけで説明すると、信長がしたことの半分しか見えません。大量の鉄砲を買うお金がどこから来ていたのかまで、いっしょに追ってみましょう。
信長が生きた時代 戦国時代
信長が生まれたころ、京都にはまだ室町幕府がありました。けれども、将軍が殺される事件まで起きるほど、世の中は乱れていました。家来が主人をたおす下剋上が広がり、実力で自分の国を支配する戦国大名が各地で争っていた時代です。
この戦国時代は、室町時代の後半と重なっています。争いが続いているあいだも、幕府そのものはなくなっていなかったわけです。
信長は、尾張、今で言うと愛知県の西部の戦国大名でした。まずは尾張を統一するところからのスタートで、全国の地図で見れば、ほんの小さな一角にすぎません。

1信長の戦い 桶狭間の戦い(1560年・今川義元)と長篠の戦い(1575年・武田勝頼)
まず押さえたい戦いは、1560年に起こります。今の静岡県を中心に、愛知県の東部までを治めていた有力な大名、今川義元が、大軍を率いて尾張に攻め込んできました。兵の数は記録によってちがいますが、今川の軍は信長の軍の何倍もいました。
ふつうに考えれば、勝ち目はほとんどありません。それでも信長は、少ない兵で義元の本陣(大将がいる場所)を攻め、義元を討ち取りました。これが1560年の桶狭間の戦いです。この勝利で、信長は一気に勢いをつけていきます。
話は少し先の年に飛びます。1575年、信長は徳川家康と手を組み、今の山梨県の大名だった武田勝頼の軍と、今の愛知県の東のほうで戦いました。織田・徳川の連合軍が勝ったこの戦いが、1575年の長篠の戦いです。
ここで信長が頼りにしたのは鉄砲でした。ポルトガル人が種子島に伝えたこの新しい武器を、信長はたくさんそろえていたんですね。連合軍は木の柵を立て、その後ろから鉄砲で武田の軍をねらいました。大量の鉄砲を使ったこの戦いに敗れてから、武田氏は衰えていきます。
ただ、鉄砲をそろえるにはお金がかかります。信長は、商業で栄えていた堺(今の大阪府堺市)も支配下に置いていました。鉄砲やお金を手に入れる足場になった町です。
2つの戦いは、年と相手を組みにして区別します。
戦い | 年 | 相手 | 勝ち方 |
|---|---|---|---|
桶狭間の戦い | 1560年 | 今川義元 | 少ない兵で大軍に勝った |
長篠の戦い | 1575年 | 武田勝頼 | 徳川家康と組み、鉄砲を大量に使って勝った |

2古い力をおさえる 足利義昭と室町幕府の滅亡(1568年・1573年)、延暦寺の焼き討ち(1571年)
信長がおさえていった古い力の1つ目は、室町幕府です。
桶狭間のあと、信長は今の岐阜県の地域も手に入れ、岐阜に本拠を移しました。そこで手を組んだのが足利義昭です。義昭は、兄の将軍が殺されたあと、各地の大名を頼って身を寄せていた人物でした。1568年、信長はこの義昭を立てて京都に入ります。京都にのぼることを上洛といい、義昭はこのとき室町幕府の15代将軍になりました。
信長がわざわざ義昭を将軍にしたのは、はじめは将軍の権威、つまり人々を従わせる力を利用するためだったと考えられています。将軍の名前を借りながら、京都を押さえていったわけです。
ところが信長の力が強まると、2人の仲は悪くなっていきました。義昭が各地の大名に呼びかけたことで、信長のまわりは敵だらけになります。1573年、兵を挙げた義昭を信長は破り、京都から追い出しました。およそ240年続いた幕府は、ここで終わりを迎えます。これが1573年の室町幕府の滅亡です。
2つ目の古い力が仏教勢力、つまり兵やお金をもつ大きな寺院です。大名から見ても手ごわい相手でした。
その代表が、今の京都府と滋賀県の境にある比叡山の延暦寺です。延暦寺は、信長と敵対していた浅井氏・朝倉氏に味方しました。信長はこの寺を攻め、焼き討ちにします。1571年の比叡山延暦寺の焼き討ちです。
信長が戦った相手には、浄土真宗(一向宗)の信者たちもいました。信者たちが起こした一向一揆です。信長は各地の一向一揆と戦い、その中心になっていた寺、今の大阪府にあった石山本願寺も最後には降伏させました。一揆は信者たちの動きで、本願寺はお寺そのものです。
将軍と大きな寺院は、どちらも中世に強い力をふるってきた勢力でした。信長と争ううちに、その力は失われていきます。
ただし、信長は宗教をまるごと敵にしたわけではありません。宣教師が教えを広めることを認め、キリスト教は保護しました。「仏教勢力はおさえ、キリスト教は保護した」という組み合わせは、テストでもよく問われます。

3商業をさかんにする 安土城(1576年)と楽市・楽座・関所の廃止
1576年、信長は琵琶湖の東岸、今の滋賀県に安土城を築き始めました。京都に近く、琵琶湖の船で人や物を運ぶのにも便利な場所です。城の中心には高い天守がそびえていて、天守を中心にした本格的な城はここから始まったとされます。ちなみに1576年は工事を始めた年で、完成したのはもう少しあとです。
この安土城の城下で行ったのが楽市・楽座です。
それまでは座とよばれる商人や職人の同業者の組合が、力のある人から特別な権利をもらい、品物の商売を独り占めしていました。座に入っていない人は、自由に店を出せなかったのです。信長は城下の市での税を免除し、座の特権をなくして、だれでも商売ができるようにしました。こうして安土の城下には商人が集まってきます。
もう一つの政策が関所の廃止です。関所は通る人から通行料をとっていた場所で、道のあちこちに置かれていました。品物を遠くへ運ぶ商人は、関所を通るたびにお金を払わなければなりません。信長は自分の領地の関所を廃止して、人や物が自由に行き来できるようにしました。
楽市・楽座で「売る自由」を、関所の廃止で「運ぶ自由」を広げたことで、商工業がさかんになり、信長の経済力は高まっていきました。堺を支配していたこともあわせて考えると、信長の強さを支えていたのは戦場の力だけではなかったとわかります。記述問題では、この2つの政策と「商工業がさかんになった」という結果を、ひと続きで書けるようにしておくと安心です。

統一の途中で 本能寺の変(1582年・明智光秀)
1582年、信長は、中国地方で戦っていた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)を助けに行く途中で、京都の本能寺に泊まっていました。そこを家臣の明智光秀に襲われ、信長は自害します。これが1582年の本能寺の変です。光秀がなぜそむいたのかは、いまもわかっていません。
信長の統一事業は、こうして途中で止まりました。そのあとを引き継いだのが豊臣秀吉です。

まとめ 年の順に一本の線でつなぐ
戦い・古い力・商業とテーマごとに分けると、年の順番が前後します。年の順に一本の線でつなぐと、こうなります。
尾張の戦国大名 → 1560年 桶狭間の戦いで今川義元を破る → 1568年 足利義昭を立てて京都へ → 1571年 比叡山延暦寺の焼き討ち → 1573年 義昭を追放し、室町幕府が滅亡 → 1575年 長篠の戦いで、鉄砲を大量に使って武田の軍を破る → 1576年 安土城を築き始める → 安土の城下で楽市・楽座、領地の関所を廃止 → 1582年 本能寺の変 → 豊臣秀吉へ
信長は、室町幕府や大きな寺院、座や関所といった古い力をおさえました。そのかわりに手にしたのが、商業から生まれるお金と、鉄砲を使った新しい戦い方です。
年表
年 | 出来事 | ポイント |
|---|---|---|
1560年 | 桶狭間の戦いで今川義元を破る | 戦い |
1568年 | 足利義昭を立てて京都に入る(義昭が15代将軍に) | 古い力 |
1571年 | 比叡山延暦寺を焼き討ちにする | 古い力 |
1573年 | 足利義昭を京都から追放し、室町幕府が滅亡する | 古い力 |
1575年 | 長篠の戦いで、徳川家康と組んで武田勝頼の軍を破る | 戦い |
1576年 | 安土城を築き始める | 商業 |
1582年 | 本能寺の変で、明智光秀にそむかれた信長が自害する | ― |
用語のまとめ
用語 | 種類 | 意味 |
|---|---|---|
織田信長 | 人物 | 尾張(今の愛知県西部)の戦国大名。全国の統一を進めた |
桶狭間の戦い | 戦い | 1560年、信長が少ない兵で今川義元の大軍を破った戦い |
今川義元 | 人物 | 今の静岡県を中心に治めた有力な大名。桶狭間の戦いで信長に敗れた |
長篠の戦い | 戦い | 1575年、織田・徳川の連合軍が鉄砲を大量に使って武田勝頼の軍を破った戦い |
鉄砲 | 武器 | ポルトガル人が種子島に伝えた武器。長篠の戦いで大量に使われた |
足利義昭 | 人物 | 室町幕府の15代将軍。1568年に信長に立てられ、1573年に京都から追放された |
室町幕府の滅亡 | 出来事 | 1573年、信長が義昭を追放し、幕府が終わったこと |
仏教勢力 | 勢力 | 兵やお金をもつ大きな寺院。延暦寺や石山本願寺など |
比叡山延暦寺 | 寺 | 今の京都府と滋賀県の境にある寺。浅井氏・朝倉氏に味方し、1571年に焼き討ちにされた |
一向一揆 | 動き | 浄土真宗(一向宗)の信者たちが起こした一揆。信長は各地で戦った |
石山本願寺 | 寺 | 今の大阪府にあった、一向一揆の中心の寺。最後は信長に降伏した |
キリスト教 | 宗教 | 信長は、宣教師が教えを広めることを認めて保護した |
安土城 | 城 | 1576年に琵琶湖の東岸(今の滋賀県)に築き始めた信長の城。天下統一の拠点 |
座 | 組合 | 商人や職人の同業者の組合。特別な権利をもらい、商売を独り占めしていた |
楽市・楽座 | 政策 | 市の税を免除し、座の特権をなくして、だれでも商売できるようにした政策 |
関所の廃止 | 政策 | 通行料をとる関所を自分の領地でなくし、人や物の行き来を自由にした政策 |
本能寺の変 | 事件 | 1582年、信長が家臣の明智光秀にそむかれ、京都の本能寺で自害した事件 |
明智光秀 | 人物 | 本能寺の変で信長を襲った家臣 |
よくある間違い
楽座は「座が楽になる」政策ではありません。 反対に、座の特権をなくして、だれでも商売できるようにしたのが楽市・楽座です。信長のほかにも行った大名はいますが、テストでは「信長が安土城の城下で行った政策」として出てきます。
桶狭間と長篠は、相手で見分けます。 1560年の桶狭間の戦いは今川義元、1575年の長篠の戦いは武田勝頼が相手でした。鉄砲が出てくるのは長篠のほうです。
安土城があるのは今の滋賀県です。 尾張も桶狭間も長篠も今の愛知県なので、安土城までまとめて愛知県と書くまちがいが出やすいところです。琵琶湖のほとりの城、と場所ごと覚えてください。
関所を廃止したのは、信長の領地でのことです。 答案では「自分の領地の関所を廃止した」と書けば正確になります。
一向一揆と石山本願寺は、同じものではありません。 一向一揆は浄土真宗の信者たちが起こした動きで、石山本願寺はその中心になった寺です。仏教勢力の例として寺の名前を答えるなら、延暦寺か石山本願寺を書きます。
1568年と1573年は、どちらも義昭にかかわる年です。 1568年は義昭を立てて京都に入った年、1573年は義昭を追放して室町幕府が滅んだ年。並べかえ問題では、この順番がひっかけになります。
長篠の戦いは「大量の鉄砲を使って勝った」と書ければ十分です。 鉄砲の数や使い方は、記録によって書かれていることがちがい、いまも説が分かれています。
本能寺の変の理由は決まっていません。 光秀がそむいた理由にはいくつもの説があります。テストで答えるのは「家臣の明智光秀にそむかれて自害した」までです。
プリントと動画で確認しよう
このテーマの単語テストと問題集は、下のボタンからダウンロードできます。どちらも答えと解説がついています。
流れをざっと確かめたいときはアニメーション編を、理由までくわしく知りたいときは詳細解説編の動画を見てください。
重要語句 桶狭間の戦い、長篠の戦い、安土城、楽市・楽座、本能寺の変