中学社会・歴史・近世の日本・No.41

豊臣秀吉の全国統一

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解説

本能寺の変で信長がたおれてから8年後の1590年、豊臣秀吉は全国統一をなしとげました。テストでよく問われるのは、統一の戦いそのものより、そのあいだに秀吉が国の中で何を変えたかです。田畑を測る政策と、百姓から武器を取り上げる政策で、武士と百姓の暮らしははっきり分かれていきました。

信長のあとつぎへ 山崎の戦い(明智光秀)

秀吉は、今の愛知県で身分の低い家に生まれました。織田信長に仕え、戦いで手がらを重ねて、信長に重く用いられるようになった人物です。はじめは羽柴秀吉と名のっていたので、羽柴秀吉と出てきても同じ人だと思ってください。

1582年、本能寺の変が起きたとき、秀吉は中国地方で毛利氏と戦っていました。信長が家臣の明智光秀にそむかれ、自害したことを知ると、秀吉はすぐに毛利氏と和睦します。和睦というのは、戦いをやめて仲直りすることです。そして急いで軍を引き返しました。

秀吉の軍は、京都の近くの山崎(今の京都府)で光秀の軍を破ります。これが山崎の戦いです。次の年には、信長のあとつぎの座をめぐって対立した、信長の有力な家臣も破りました。こうして秀吉は、信長の後継者の立場をかためていきます。

山崎の戦い。豊臣秀吉が明智光秀を破った
山崎の戦い。豊臣秀吉が明智光秀を破った

1全国統一までの流れ 大阪城と関白、小田原の北条氏(1590年)

秀吉が全国統一の本拠地にしたのが大阪城です。場所は、信長と長く戦った石山本願寺の跡。大名たちを動員して築いた、大きな天守をもつ城で、まわりには城下町もつくられました。当時は「坂」の字を使って大坂と書いていました。なお、今ある大阪城の天守閣は、ずっとあとに建て直されたものです。

秀吉は戦いだけでなく、朝廷の位も使いました。天皇から関白に任じられたのです。関白は、天皇を助けて政治を行う、朝廷でいちばん高い位の一つ。平安時代に藤原氏がついていた位で、藤原氏以外で関白になったのは秀吉が初めてでした。次の年には太政大臣にもなり、天皇から「豊臣」の姓をもらいます。羽柴秀吉が豊臣秀吉になったのは、このときです。

関白になったことで、秀吉は朝廷の権威、つまりみんなを従わせる力を手に入れました。この力を背に、大名たちへ争いをやめて従うよう命じられるようになります。従わない大名には大軍を送り、まず四国、続いて九州を従えました。

最後まで従わなかったのが、小田原(今の神奈川県)を本拠地にしていた関東の北条氏です。秀吉は大軍で小田原城を囲み、北条氏を降伏させてほろぼしました。関東や東北の大名もこれに従い、1590年の全国統一が完成します。長く続いた戦国時代は、ここで終わりを迎えました。

小田原(今の神奈川県)の北条氏を破った豊臣秀吉
小田原(今の神奈川県)の北条氏を破った豊臣秀吉

2太閤検地と刀狩(1588年) 武士と百姓が分かれる

秀吉が全国で進めた政策の1つ目が太閤検地です。秀吉は役人を送って田畑を一つずつ測らせ、広さと土地のよしあしを調べました。調べた田畑は、そこでとれる米の量で表します。これが石高です。お金ではなく米の量で表したところがポイントで、大名の領地の広さも「〇万石」のように石高で言うようになりました。米の量をはかるますや、長さをはかるものさしも全国でそろえています。

名前の「太閤」は、関白の位をゆずったあとの秀吉の呼び名です。検地そのものは関白をゆずる前から行われていて、あとからこの呼び名をとって太閤検地と呼ばれるようになりました。

検地でいちばん変わったのは、だれが年貢を納めるかです。実際にその田畑を耕している百姓(おもに村に住んで農業をする人々)の名前を検地帳に書き、その百姓に年貢を納めさせました。荘園のころは、一つの土地に貴族や寺社、武士などの権利がいくつも重なっていて、とても複雑でした。その関係が太閤検地で整理され、中世から続いた土地のしくみは終わります。

2つ目が刀狩です。秀吉は刀狩令を出し、百姓が刀や脇差、弓、やり、鉄砲などの武器を持つことを禁じて、取り上げさせました。これが1588年の刀狩です。ねらいは一揆を防ぐことと、百姓を田畑を耕す仕事に専念させることでした。表向きには、取り上げた武器を京都に造る大仏の釘などに使う、と説明しています。

検地と刀狩がそろうと、戦いを仕事にする武士と、田畑を耕す百姓の区別がはっきりしていきます。これを兵農分離といいます。秀吉はさらに、武士に仕える人が百姓や町人になることや、百姓が田畑を捨てて商売を始めることなども禁じました。こうして分かれた武士と百姓・町人の区別が、江戸時代の身分のしくみの土台になります。

記述問題では「検地と刀狩によって、武士と百姓の区別がはっきりした」とひと続きで書き、そのあとに兵農分離の語を添えれば答えになります。

刀狩(1588年)。百姓から武器を取り上げた
刀狩(1588年)。百姓から武器を取り上げた

3外国との関わり バテレン追放令(1587年)と朝鮮侵略(文禄の役1592年・慶長の役1597年)

信長のころから、宣教師たちは日本でキリスト教を広めていました。秀吉もはじめは布教を認めています。ところが九州を従えた直後、博多の近く(今の福岡県)で1587年のバテレン追放令を出しました。バテレンはポルトガル語の神父という言葉から来ていて、宣教師のことです。秀吉は宣教師に、20日以内に国外へ出ていくよう命じました。

追い出そうとした理由は、キリスト教が広まり、長崎が教会の領地になっていたことなどを警戒したためと説明されます。理由は一つに決まっていません。秀吉は長崎を取り上げ、自分が直接治める土地にしました。

ただし、南蛮船との貿易、つまり南蛮貿易は続けました。そのため、キリスト教の取りしまりは徹底しませんでした。貿易は続けたい、でもキリスト教は広げたくない。この食い違いが、テストでは「なぜ徹底しなかったのか」という形で問われます。

全国統一のあと、秀吉は明(今の中国)を征服しようとします。そこで朝鮮に、日本に従うことと、明へ攻めこむための道案内を求めましたが、朝鮮は断りました。秀吉は九州の北の端、今の佐賀県に出兵の拠点となる城を築き、朝鮮へ大軍を送ります。

これが1592年の文禄の役です。約15万の軍は、朝鮮の首都の漢城(今のソウル)を占領し、さらに北へ進みました。けれども海では朝鮮の水軍に敗れ、食料や武器を運ぶのが苦しくなります。各地の朝鮮の人々の抵抗や明の援軍にも苦しめられ、休戦しました。

明との話し合いはまとまらず、秀吉はもう一度、朝鮮に大軍を送ります。これが1597年の慶長の役です。このときも朝鮮と明の軍の激しい抵抗にあい、苦戦しました。戦いのさなかに秀吉が病気で亡くなると、日本の軍は朝鮮から引きあげます。

2度の朝鮮侵略で、朝鮮の人々や国土は大きな被害を受けました。日本でも、戦いにかり出された大名や民衆の負担が重くなり、豊臣氏の力が弱まる原因の一つになっています。朝鮮からは焼き物の職人である陶工が連れてこられ、日本の各地で新しい焼き物が始まりました。

この出来事は、教科書や資料によって「朝鮮侵略」「文禄の役・慶長の役」「朝鮮への出兵」と書き方がちがいます。どの書き方でも、1592年の文禄の役が1回目、1597年の慶長の役が2回目です。

まとめ 年の順に一本の線でつなぐ

統一・政策・外国とテーマで分けると、年の順番が前後します。年の順に一本の線でつなぐと、こうなります。

山崎の戦いで明智光秀を破る → 大阪城を本拠地にする → 関白になる → 四国・九州を従える → 1587年 バテレン追放令 → 1588年 刀狩 → 1590年 小田原の北条氏をほろぼし、全国統一 → 1592年 文禄の役 → 1597年 慶長の役 → 秀吉が亡くなり、朝鮮から引きあげる

もう一本、政策の線も引いておきます。

太閤検地+刀狩 → 兵農分離(武士と百姓の区別がはっきりする) → 江戸時代の身分のしくみの土台

秀吉は全国をひとつにまとめ、太閤検地と刀狩で、武士と百姓が分かれた社会をつくりました。このしくみを受けついで始まるのが、次の江戸時代です。

年表

年

出来事

ポイント

1587年

九州を従えた直後に、バテレン追放令を出す

外国

1588年

刀狩令を出し、百姓から武器を取り上げる

政策

1590年

小田原の北条氏をほろぼし、全国統一を完成させる

統一

1592年

文禄の役(1回目の朝鮮侵略)

外国

1597年

慶長の役(2回目の朝鮮侵略)

外国

用語のまとめ

用語

種類

意味

豊臣秀吉

人物

信長のあとをついで全国統一を完成させた。はじめは羽柴秀吉と名のった

明智光秀

人物

本能寺の変で信長にそむいた家臣。山崎の戦いで秀吉に敗れた

山崎の戦い

戦い

秀吉が、京都の近くの山崎で明智光秀の軍を破った戦い

大阪城

城

石山本願寺の跡に秀吉が築いた、全国統一の本拠地(当時の書き方は大坂城)

関白

位

天皇を助けて政治を行う、朝廷でいちばん高い位の一つ。秀吉は藤原氏以外で初めてついた

北条氏

大名

小田原(今の神奈川県)を本拠地にした関東の大名。鎌倉時代の執権の北条氏とは別の家

全国統一

出来事

1590年、北条氏をほろぼし、関東・東北の大名も従えて完成した

太閤検地

政策

役人を送って田畑の広さとよしあしを調べ、とれる米の量(石高)で表した政策

石高

単位

その土地でとれる米の量。大名の領地の広さも「〇万石」と石高で表した

検地帳

帳面

田畑を実際に耕す百姓の名前を書いた帳面。この百姓が年貢を納めた

刀狩

政策

1588年、刀狩令で百姓から刀や鉄砲などの武器を取り上げた政策

一揆

動き

百姓などが団結して領主に立ち向かうこと。刀狩はこれを防ぐねらいがあった

兵農分離

しくみ

検地と刀狩で、武士と百姓の区別がはっきりしたこと

バテレン追放令

命令

1587年、宣教師に国外へ出るよう命じた命令。南蛮貿易は続けたので徹底しなかった

南蛮貿易

貿易

南蛮船との貿易。バテレン追放令のあとも続けられた

朝鮮侵略

出来事

明を征服しようとした秀吉が、朝鮮に2度大軍を送ったこと(文禄の役・慶長の役)

文禄の役

戦い

1592年、1回目の朝鮮侵略。漢城(今のソウル)を占領したが、のちに休戦した

慶長の役

戦い

1597年、2回目の朝鮮侵略。秀吉が亡くなると日本の軍は引きあげた

よくある間違い

全国統一を完成させたのは秀吉です。 信長は統一を進めましたが、途中で本能寺の変にたおれました。1590年の全国統一は、秀吉の名前と組みにして覚えます。

秀吉が政治を行ったときの位は関白です。 関白は天皇を助ける朝廷の位で、将軍とは別のものです。「豊臣」の姓をもらったのは、関白になった次の年でした。

小田原の北条氏は、鎌倉時代の北条氏とは別の家です。 鎌倉時代に執権をつとめた北条氏と、秀吉に攻められた小田原の北条氏は、名前が同じでも時代がちがいます。

秀吉の本拠地は大阪城、信長の本拠地は安土城です。 大阪城は石山本願寺の跡(今の大阪府)、安土城は今の滋賀県。本拠地を問う問題では、人物と城の組み合わせがひっかけになります。

石高は、お金ではなく米の量です。 「〇万石」は、その領地でとれる米の量を表しています。

刀狩のねらいは2つです。 答案には「一揆を防ぐ」と「百姓を耕作に専念させる」を書きます。武器を取り上げた相手は百姓で、武士ではありません。

バテレン追放令で国外へ出るよう命じた相手は、宣教師です。 南蛮貿易は続けたので、キリスト教の取りしまりは徹底しませんでした。「貿易は続けた」までをセットにすると、説明問題にも答えられます。

文禄の役が先、慶長の役があとです。 1592年が文禄の役、1597年が慶長の役。朝鮮侵略の目的を問われたら「明を征服しようとした」と書きます。

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重要語句 太閤検地、刀狩、兵農分離、バテレン追放令、文禄の役

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