解説
江戸幕府は外国との行き来を強く制限しましたが、それで外とのつながりがすべて切れたわけではありません。外とつながる窓口が4つ残っていて、場所ごとに担当と相手が決まっていました。「どこが・だれが担当して・どの相手と」を表にそろえて覚えると、テストの問われ方がぐっと見えやすくなります。
前回のふり返りと、4つの窓口の全体
前回の内容を思い出してください。幕府はキリスト教を禁止し、1639年にはポルトガル船が来ることも禁止しました。オランダの商館も、長崎の出島に移しています。こうして外国との行き来や貿易を幕府が強く制限した体制を、のちに「鎖国」と呼びます。
この「鎖国」という言葉は、当時の幕府が使っていたものではなく、のちの時代につけられた呼び名です。そのため、教科書によっては「鎖国」をかぎかっこ付きで書いています。
それでも、外とつながる窓口は残っていました。長崎、対馬、薩摩、松前の4つの窓口です。対馬は今の長崎県対馬市、薩摩は今の鹿児島県、松前は今の北海道の南の端にあたります。
4つの窓口は、どれも「場所の名前」です。長崎は幕府、対馬は対馬藩、薩摩は薩摩藩、松前は松前藩が担当しました。幕府が直接おさえたのは長崎だけで、あとの3つは藩に任されていました。
1長崎の窓口 オランダ・中国(清)との貿易とオランダ風説書
長崎は、幕府が直接治める直轄地でした。幕府の役人である長崎奉行が、ここでの貿易を監督しています。貿易の相手は、オランダと中国の2つだけでした。
オランダの人たちが住むことを許されたのは、長崎の港につくられた扇の形の人工の島、出島だけです。ヨーロッパの国の中でオランダだけが許されたのは、オランダもキリスト教の国ではあるものの、教えを広めることより貿易を大事にしたからでした。
このころの中国は、清の時代です。教科書によっては、中国を「清」と書いています。中国とのあいだには国どうしの正式なつきあい(国交)はなく、長崎にやってくる中国の商船と貿易をしていただけでした。中国の人たちは、のちに塀と堀で囲まれた唐人屋敷に住むことになります。オランダの人は出島、中国の人は唐人屋敷と、住む場所も分けられていたわけです。
長崎の貿易で日本に入ってきたのは、生糸や薬、本など。日本からは銀や銅などが出ていきました。
長崎の窓口にはもう一つ、オランダ風説書という仕組みがありました。オランダ船が長崎に来るたびに、オランダ商館長が海外のようすをまとめて幕府に出した報告書です。通訳が日本語に訳し、長崎奉行を通して江戸の幕府に届けました。
幕府にとって、これはほとんどただ一つの公式な海外の情報でした。貿易だけでなく、海外の情報も幕府が独り占めしていたことになります。記述問題で「幕府はどうやって海外の情報を手に入れたか」と聞かれたら、オランダ風説書の名前と中身を答えられるようにしておくと安心です。
2対馬と薩摩の窓口 朝鮮通信使(朝鮮)と琉球王国
対馬は、九州と朝鮮半島のあいだにある島です。窓口の長崎と同じ長崎県なので、場所としては分けて覚える必要があります。
豊臣秀吉が朝鮮に大軍を送ったことで、日本と朝鮮の国交は途絶えていました。その回復を強く望んだのが徳川家康です。交渉の役をつとめたのが対馬藩で、朝鮮の側も、連れ去られた人々を取り戻したいと考えていました。こうして江戸時代の初めに国交が回復します。
そのあとも、朝鮮とのやりとりは対馬藩(藩主は宗氏)の担当でした。朝鮮の南の港町、釜山に倭館が置かれ、対馬藩の家臣や商人がそこに住んで貿易をしました。対馬藩は、藩のお金の面でもこの朝鮮との貿易に頼っていました。
朝鮮からは、朝鮮通信使がやってきました。将軍が代わったときなどに、朝鮮の国王からの国書(国と国とのやりとりに使う正式な手紙)を将軍に届けに来た使節です。一行は数百人の大行列で、船で大坂まで来て、そこから陸の道で江戸に向かいました。来日は江戸時代に12回で、最後の1回だけは対馬まででした。通る道の大名がもてなし、使節は各地の学者や文化人とも交流しています。そのときの書や絵は、今も各地に残っています。
テストでよくねらわれるのは、江戸時代の日本が正式な国交をもっていたのは朝鮮だという点です。朝鮮通信使は、朝鮮の国王と日本の将軍が国書を交わす、対等なつきあいの使節でした。
次は薩摩です。薩摩を治めていたのは島津氏の薩摩藩でした。1609年、薩摩藩は徳川家康の許しを得て、南の海にあった琉球王国、今の沖縄県に攻め込み、支配下に置きました。琉球王国では、首里城に王の政府がありました。
ここで押さえたいのは、琉球王国がそのまま王国として続いたことです。琉球王国は薩摩藩の支配を受けながら、中国にも朝貢を続けました。朝貢とは、中国に使いを送って貢ぎ物をすることです。薩摩藩は、琉球が中国と続けていた貿易を利用して、中国の生糸などを手に入れています。
将軍が代わったときや、琉球の国王が代わったときには、琉球使節が江戸まで来ました。幕府や薩摩藩は、外国の使いがあいさつに来たように見せるため、使節に中国風の服装で行列をさせていました。
3松前の窓口 アイヌの人々とシャクシャインの戦い(1669年)
北の蝦夷地、今の北海道には、アイヌの人々が昔から住んでいました。アイヌの人々は、独自の言葉や文化をもつ日本の先住民族です。狩りや漁でとったサケやコンブ、毛皮などを、和人(本州から来た日本人)と交易して、米や鉄の道具などを手に入れていました。北の樺太や大陸の人々とも交易をしています。
蝦夷地の南の端にあったのが松前藩です。松前藩は、徳川家康からアイヌの人々との交易を独り占めする権利を認められていました。松前藩の土地では米がとれなかったため、この交易が藩の収入のもとでした。
ところが、この交易はアイヌの人々にとってだんだん不利になっていきます。同じ量のサケを出しても、もらえる米がずっと少なくなっていったのです。砂金を求めて入ってくる和人もいて、アイヌの人々の暮らしの場も荒らされていきました。
こうした不満が各地に広がり、1669年のシャクシャインの戦いが起こります。アイヌの首長(地域のリーダー)シャクシャインを中心に、アイヌの人々が立ち上がって松前藩と戦いました。
戦いは、鉄砲をもつ松前藩が優勢になります。仲直りの話し合いの席でシャクシャインは松前藩に殺され、戦いはアイヌの人々の側の負けに終わりました。このあと、松前藩の支配はさらに強まっていきます。
アイヌの人々は、アイヌ語という独自の言葉や、自然の恵みに感謝する信仰、美しい模様の衣服など、豊かな文化をもっていて、その文化は今も受け継がれています。
まとめ 4つの窓口を一本の線で
前回の内容から、この回の終わりまでを一本の線でつなぐと、こうなります。
1639年 ポルトガル船の来航を禁止(前回) → 外国との行き来を幕府が強く制限した体制=のちの「鎖国」 → 長崎(幕府)でオランダ・中国と貿易、オランダ風説書で海外の情報を独り占め → 対馬(対馬藩)で朝鮮と国交、朝鮮通信使が来日 → 薩摩(薩摩藩)が琉球王国を支配下に、琉球は中国にも朝貢 → 松前(松前藩)がアイヌの人々との交易を独占 → 1669年 シャクシャインの戦い → 松前藩の支配が強まる
4つの窓口は、表にすると次のようになります。
窓口(場所) | 担当 | 相手 | セットで覚えること |
|---|---|---|---|
長崎(今の長崎県) | 幕府 | オランダ・中国(清) | 出島・唐人屋敷・オランダ風説書 |
対馬(今の長崎県対馬市) | 対馬藩 | 朝鮮 | 朝鮮通信使・倭館 |
薩摩(今の鹿児島県) | 薩摩藩 | 琉球王国 | 琉球使節・琉球は中国にも朝貢 |
松前(今の北海道) | 松前藩 | アイヌの人々 | 交易の独占・シャクシャインの戦い |
幕府は窓口を4つにしぼり、幕府と藩で管理しました。その中でも、外国や周りの地域との交易や交流は続いていたのです。
年表
年 | 出来事 | ポイント |
|---|---|---|
1639年 | ポルトガル船の来航を禁止する | 前回(No.46)の内容 |
1669年 | シャクシャインの戦いで、アイヌの人々が松前藩と戦う | 松前の窓口 |
用語のまとめ
用語 | 種類 | 意味 |
|---|---|---|
鎖国 | 体制の呼び名 | 幕府が外国との行き来を強く制限した体制の、のちの呼び名 |
4つの窓口 | 場所 | 長崎・対馬・薩摩・松前。外とのつながりが残った4つの場所 |
長崎 | 場所 | 幕府の直轄地。オランダ・中国と貿易した窓口 |
出島 | 場所 | 長崎の港につくられた扇の形の人工の島。オランダの人が住んだ |
唐人屋敷 | 場所 | 長崎で中国の人が住んだ、塀と堀で囲まれた場所 |
オランダ | 国 | 長崎の出島で貿易を許されたヨーロッパの国 |
中国(清) | 国 | 長崎に商船が来て貿易した。国交はなかった |
オランダ風説書 | 報告書 | オランダ商館長が幕府に出した海外のようすの報告書 |
対馬藩 | 藩 | 朝鮮との交渉・貿易を任された藩。藩主は宗氏 |
倭館 | 場所 | 朝鮮の釜山に置かれた、対馬藩の貿易の場所 |
朝鮮 | 国 | 江戸時代の日本が正式な国交をもった国 |
朝鮮通信使 | 使節 | 将軍の代がわりなどに、朝鮮の国王の国書を将軍に届けた使節。江戸時代に12回 |
薩摩藩 | 藩 | 島津氏の藩。琉球王国を支配下に置いた |
琉球王国 | 国 | 今の沖縄県にあった王国。薩摩藩の支配を受けながら中国にも朝貢した |
琉球使節 | 使節 | 将軍や琉球の国王が代わったときに、琉球から江戸に来た使節 |
松前藩 | 藩 | 蝦夷地の南の端にあった藩。アイヌの人々との交易を独占した |
アイヌの人々 | 人々 | 蝦夷地(今の北海道)などに住み、独自の言葉と文化をもつ日本の先住民族 |
シャクシャインの戦い | 出来事 | 1669年、シャクシャインを中心にアイヌの人々が松前藩と戦った |
よくある間違い
窓口は場所、担当は幕府と藩です。 長崎・対馬・薩摩・松前は場所の名前で、担当は幕府・対馬藩・薩摩藩・松前藩。幕府が直接おさえたのは長崎だけです。
対馬と長崎は、窓口としては別です。 どちらも今の長崎県ですが、長崎の相手はオランダと中国、対馬の相手は朝鮮でした。
正式な国交があったのは朝鮮です。 中国とのあいだは、長崎に来る商船との貿易だけでした。「国交の朝鮮、貿易だけの中国」と組にしておくと、選択問題で迷いません。
出島に住んだのはオランダの人です。 中国の人は唐人屋敷に住みました。
オランダもキリスト教の国です。 貿易を許されたのは、教えを広めることより貿易を大事にしたからでした。
朝鮮通信使と琉球使節は、来た国と目的で見分けます。 朝鮮通信使は朝鮮の国王の国書を将軍に届けた使節で、対等なつきあいでした。朝貢という言葉は、琉球と中国の関係で使います。
薩摩藩の支配を受けても、琉球王国は続きました。 「薩摩藩が支配下に置いた」「王国は続き、中国にも朝貢した」の2つをセットで書けると正確です。
朝鮮通信使は江戸時代に12回来ました。 最後の1回だけは対馬まででした。
1669年の出来事は「シャクシャインの戦い」と書きます。 説明するときは「アイヌの人々が松前藩と戦った」と書けば十分です。
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重要語句 オランダ風説書、対馬藩、朝鮮通信使、薩摩藩、シャクシャイン