解説
江戸幕府ができてから80年ほどたつと、大きな戦いはもう起こらなくなっていました。そのころ幕府の政治は、刀の力ではなく学問と礼儀で世の中を治める方向へ変わっていきます。同じころ、京都や大阪では豊かになった町人たちが新しい文化を生み出しました。政治の変化と文化の担い手を、理由といっしょに整理していきます。
綱吉の時代の背景 戦いのない世の中へ
江戸幕府ができたころは、武家諸法度などのきまりで、大名を厳しく取りしまっていました。このように、武力で大名をおさえつける政治を武断政治といいます。
ところが、幕府ができて80年ほどたつと、世の中から大きな戦いが消えていました。そうなると、力でおさえるより、学問や礼儀、法で秩序を保つほうが大切になってきます。こうした政治を文治政治とよびます。
武断政治から文治政治への変化は、4代将軍のころから少しずつ進んでいました。綱吉がひとりで一気に変えたわけではありません。その流れを代表する将軍が、5代将軍の徳川綱吉です。
1綱吉の文治政治 朱子学と湯島聖堂
綱吉は4代将軍の弟で、兄のあとをついで5代将軍になりました。学問が好きで、自分で儒学の講義をするほどだったといいます。
儒学は、中国の孔子の教えをもとにした学問です。その中で綱吉が重んじたのが朱子学でした。朱子学は、主君と家来、親と子のような、上下の秩序をとても大切にする学問です。
幕府が朱子学を大事にしたのは、上下の関係を守るという教えが、身分の秩序を保ちたい幕府の考えにぴったり合っていたからです。理由を書かせる記述問題では、「上下の秩序(身分の秩序)を大切にする学問だから」と書けば答えの形になります。
綱吉は、孔子をまつる聖堂を江戸の湯島に移し、幕府の学問の中心にしました。これが湯島聖堂です。建て直された建物が、今も東京都に残っています。
さらに綱吉は、武家諸法度の中身を改めました。武士に求めたのは、主君への忠義と親への孝行、つまり忠孝と、礼儀を正しくすることです。戦いの強さより、礼儀正しさが重んじられる時代になったことが、この改め方からも読み取れます。
2生類憐みの令と新井白石 いきすぎた面とお金の問題
綱吉は、犬をはじめ、生き物を大切にするよう命じる法令を何度も出しました。これらの法令をまとめて生類憐みの令といいます。その名前の法律が1本あったわけではなく、いくつもの法令をまとめた呼び名です。対象は犬のほか、猫や牛、馬、鳥、魚、虫にまでおよびました。
なかでも犬の保護は細かく決められました。江戸の郊外の中野、今の東京都中野区のあたりには、犬を集めて飼う大規模な犬小屋がつくられています。違反した人は厳しく罰せられたため人々の反感をかい、綱吉は犬公方ともよばれました。
ただし、この法令には、捨て子の禁止や、道で倒れた人の保護など、人の命を守る内容もふくまれていました。綱吉がここまで生き物を守らせた理由ははっきりしていません。儒学の考えから、命を大切にする世の中を目指したという見方もあります。テストでは、人々を苦しめた面と、命を大切にする面の両方が書けるとよいでしょう。
綱吉のころには、寺院を建てるなどの出費がふくらみ、幕府のお金が足りなくなっていました。そこで幕府は、小判にふくまれる金の量を減らし、そのぶん小判の数を増やします。同じ量の金から、より多くのお金をつくったわけです。その結果、物価が上がってしまいました。
綱吉が亡くなると、次の6代将軍、徳川家宣が、まず生類憐みの令の大部分を廃止しました。この家宣と、その次の幼い将軍を助けて政治を進めたのが、儒学者の新井白石です。白石はもともと、家宣の学問の先生でした。
白石は、金の量を減らした小判を、もとの質に戻しました。また、今の長崎県にある長崎での貿易を制限しています。長崎はオランダや中国との貿易の窓口で、この貿易を通して金や銀が海外へ出ていっていました。そこで、来る船の数や取引の額をしぼったのです。
白石の政治も、朱子学にもとづく文治政治の続きといえます。ただ、こうした立て直しでも、幕府のお金の苦しさは十分には解決できませんでした。
3上方の町人が生んだ元禄文化 西鶴・近松・芭蕉・師宣
綱吉のころ、元禄という年号のころを中心に、上方で新しい文化が栄えました。これを元禄文化といいます。上方は、京都や大阪を中心にした地域、今の京都府・大阪府のあたりを、江戸の側から見て呼んだ言い方です。
では、なぜ上方の町人が文化の担い手になれたのでしょうか。前の回で見たように、農業や産業、交通が発達して、大阪や京都には全国から物とお金が集まるようになっていました。とくに大阪は商業の中心で、「天下の台所」とよばれています。こうして経済力をつけた上方の町人たちが、自分たちの楽しみとして文化を生み出しました。元禄文化が明るく現実的な文化だと説明されるのは、このためです。
文学では、大阪の町人だった井原西鶴が、町人たちのお金もうけや恋、ふだんの暮らしを小説に描きました。こうした小説を浮世草子といいます。町人が町人の暮らしを書いたところに、元禄文化らしさがよく表れています。
芸能では、近松門左衛門が活躍しました。近松は、人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本を書いた人です。人形浄瑠璃は、三味線の音と語りに合わせて人形を動かして演じる劇のことで、桃山文化で出てきた三味線と浄瑠璃が、人形の劇と結びついたものです。近松は、実際に起きた事件をもとにした作品などで、義理と人情の間で悩む町の人々を描き、大評判になりました。人が演じる歌舞伎も都市の楽しみとして人気を集め、上方や江戸では人気の役者も現れています。
俳諧の分野で名を残したのが松尾芭蕉です。俳諧は、五・七・五の句などをつくる文芸で、それまでは言葉遊びが中心でした。芭蕉は、自然や人生を深く見つめる句をつくり、俳諧を芸術と言えるところまで高めます。各地を旅して句と旅の記録を残し、その代表作が奥の細道です。江戸を出て東北から北陸をまわり、今の岐阜県の大垣まで、5か月ほどかけた旅がもとになっています。
絵の分野では、上方ではなく江戸で新しい動きがありました。江戸で活躍した菱川師宣が、浮世絵を始めたのです。浮世絵は、町の人々の暮らしや美人を描いた絵です。師宣はもともと本の挿絵を描いていた人で、その絵を1枚の絵として独立させ、版画で刷るようにしました。版画なら同じ絵を何枚も刷れるので、町人たちも手に入れやすくなります。
師宣の代表作が見返り美人図です。赤い着物の女性が、歩く途中でふり返った一瞬を描いています。この作品は、師宣が筆で直接描いた、1枚だけの絵です。
上方の京都では、尾形光琳という絵師が、金地の屏風にあざやかな色で草花を描く装飾画を完成させました。金地にカキツバタの花を並べた屏風が、その例です。学問では、それまで800年以上も同じ中国の暦が使われ、ずれが目立っていました。渋川春海が日本で観測をして新しい暦をつくり、これが日本人がつくった最初の暦になります。
まとめ 戦いのない世の中から、町人の文化へ
一本の線でつなぐと、こうなります。戦いのない世の中が続き、幕府の政治は武断政治から、学問と礼儀で治める文治政治へ移っていきました。その代表が、朱子学を重んじた5代将軍の徳川綱吉です。綱吉は生類憐みの令を出しましたが、亡くなると大部分が廃止され、次の将軍のもとで新井白石が小判をもとの質に戻し、長崎の貿易を制限しました。
文化の面では、産業や交通の発達で豊かになった上方の町人たちが、元禄文化の担い手になりました。西鶴は浮世草子、近松は人形浄瑠璃の脚本、芭蕉は俳諧、そして江戸の師宣は浮世絵です。人物と分野の組み合わせに、「なぜ上方の町人だったのか」という理由まで添えて答えられれば、この単元は大丈夫です。
年表
この単元には、テストで覚える年号がありません。時期の順番だけ押さえれば十分です。
時期 | 出来事 |
|---|---|
4代将軍のころから | 武断政治から文治政治へ、少しずつ変わっていく |
5代将軍 綱吉のころ | 綱吉が朱子学を重んじ、武士に忠孝と礼儀を求める |
5代将軍 綱吉のころ | 生き物を大切にする法令が何度も出される(生類憐みの令) |
元禄の年号のころを中心に | 上方の町人を担い手に、元禄文化が栄える |
綱吉が亡くなったあと | 6代将軍 徳川家宣が、生類憐みの令の大部分を廃止する |
6代・7代将軍のころ | 新井白石が政治を助け、小判をもとの質に戻し、長崎の貿易を制限する |
用語のまとめ
用語 | 種類 | 意味 |
|---|---|---|
武断政治 | 政治 | 武力で大名をおさえつける政治。江戸幕府のはじめのころの政治 |
文治政治 | 政治 | 武力ではなく、学問・礼儀・法で世の中を治める政治 |
徳川綱吉 | 人物 | 江戸幕府の5代将軍。朱子学を重んじ、文治政治を進めた |
朱子学 | 学問 | 儒学の一つの流れ。主君と家来、親と子など、上下の秩序を大切にする |
湯島聖堂 | 建物 | 孔子をまつる建物。綱吉が江戸の湯島(今の東京都)に移し、幕府の学問の中心にした |
忠孝 | 考え方 | 主君への忠義と親への孝行。綱吉が武家諸法度を改めて武士に求めた |
生類憐みの令 | 法令 | 綱吉が何度も出した、犬をはじめ生き物を大切にするよう命じた法令をまとめた呼び名 |
犬公方 | よび名 | 生類憐みの令を出したことから、綱吉についたよび名 |
新井白石 | 人物 | 6代・7代将軍を助けた儒学者。小判をもとの質に戻し、長崎の貿易を制限した |
元禄文化 | 文化 | 綱吉のころ、上方の町人を担い手に栄えた、明るく現実的な文化 |
上方 | 地域 | 京都・大阪を中心とした地域(今の京都府・大阪府のあたり)。元禄文化の中心 |
町人 | 人々 | 上方で経済力をつけ、元禄文化の担い手になった人々 |
井原西鶴 | 人物 | 大阪の町人。町人の暮らしを描いた小説(浮世草子)を書いた |
浮世草子 | 文学 | 町人のお金もうけや恋、暮らしを描いた小説 |
近松門左衛門 | 人物 | 人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本を書いた。義理と人情の間で悩む人々を描いた |
人形浄瑠璃 | 芸能 | 三味線の音と語りに合わせて、人形を動かして演じる劇 |
松尾芭蕉 | 人物 | 俳諧を芸術にまで高めた。各地を旅して奥の細道を残した |
俳諧 | 文学 | 五・七・五の句などをつくる文芸 |
奥の細道 | 文学 | 芭蕉が江戸から東北・北陸をまわった旅をもとにした作品 |
菱川師宣 | 人物 | 江戸で浮世絵を始めた絵師。代表作は見返り美人図 |
浮世絵 | 絵 | 町の人々の暮らしや美人を描いた絵。版画で多く刷られて広まった |
見返り美人図 | 作品 | 菱川師宣の代表作。ふり返る女性を筆で直接描いた1枚の絵 |
よくある間違い
新井白石が政治を助けたのは、綱吉が亡くなったあとです。 白石が仕えたのは6代将軍と7代将軍で、生類憐みの令の大部分の廃止を始めたのは6代将軍の徳川家宣でした。並べかえ問題では、綱吉の生類憐みの令が先、白石の政治があとに来ます。
元禄文化の中心は上方(京都・大阪)です。 担い手は上方の町人でした。そのなかで浮世絵は江戸で生まれていて、菱川師宣は江戸で活躍した人です。場所を問う問題は、ここがひっかけになります。
浮世草子と浮世絵は別のものです。 浮世草子は井原西鶴の小説で、草子は本のこと。浮世絵は菱川師宣が始めた絵です。名前が似ているので、人物とセットで覚えると取り違えません。
近松門左衛門は、人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本を書いた人です。 記述問題で近松の仕事を問われたら、「人形浄瑠璃の脚本を書いた」と書きます。
菱川師宣は、浮世絵を版画にして広めた人です。 代表作の見返り美人図のほうは、師宣が筆で直接描いた1枚だけの絵です。「版画で広めたこと」と「代表作」は、別々に押さえます。
生類憐みの令は、いくつもの法令をまとめた呼び名です。 生き物を大切にする法令が何度も出され、それをまとめてこうよびます。人々を苦しめた面と、捨て子の禁止など命を大切にする面の両方が、記述問題で問われます。
幕府が朱子学を重んじた理由は「上下の秩序」です。 主君と家来、親と子の上下の関係を大切にする教えが、身分の秩序を保ちたい幕府に合っていました。
プリントと動画で確認しよう
このテーマの単語テストと問題集は、下のボタンからダウンロードできます。どちらも答えと解説がついています。
人物と分野の組み合わせをざっと確かめたいときはアニメーション編を、政治が変わった理由や、上方の町人が文化の担い手になれた理由まで知りたいときは詳細解説編の動画を見てください。
重要語句 生類憐みの令、新井白石、井原西鶴、近松門左衛門、松尾芭蕉