中学社会・歴史・近世の日本・No.52

寛政の改革と外国船の接近

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解説

ききんと打ちこわしで世の中が荒れたあと、老中の松平定信が幕府の立て直しにのり出します。ところが同じころ、北の海からロシアの船が近づいてきました。国の中の問題と、海の外から来た問題。幕府はこの2つに、それぞれちがう手を打っていきます。

改革の前の世の中 天明のききんと打ちこわし

前の時代に政治を動かしていたのは、商業の力を使おうとした老中の田沼意次でした。そのころ天明のききんが続き、食べ物がひどく足りなくなります。村では百姓一揆が、町では打ちこわしが広がりました。どちらも、苦しくなった人々が集まって起こした行動です。

やがて江戸、今の東京でも大きな打ちこわしが起こり、田沼の政治は終わりました。幕府はお金が苦しく、人々の暮らしも苦しい。この立て直しをまかされたのが松平定信です。

1寛政の改革(1787年・老中 松平定信) 倹約・囲米・棄捐令・寛政異学の禁

1787年、松平定信が老中になり、幕府の立て直しを始めました。これが1787年の寛政の改革です。老中は、将軍のもとで幕府の政治を動かすいちばん上の役職でした。8代将軍吉宗が自分で進めた享保の改革とちがい、寛政の改革の中心は将軍ではなく老中の松平定信です。江戸時代の三大改革(享保・寛政・天保)では2つ目にあたります。

定信は白河藩、今の福島県白河市の藩主で、吉宗の孫にあたる人でした。そこで、おじいさんの吉宗が進めた享保の改革を手本にします。田沼が商業の力を使ったのに対して、定信がまず求めたのは倹約、つまりむだづかいをやめて節約することでした。農業を大事にする、昔ながらの政治に戻したわけです。

定信が打った手のうち、テストによく出るのは次の3つです。

1つ目は囲米です。天明のききんで大勢の人が苦しんだので、次のききんに備えて、大名や村などに米をたくわえさせました。町にもたくわえをさせています。

2つ目は棄捐令です。旗本・御家人、つまり将軍に直接仕える家臣たちは、暮らしが苦しく、お金を貸していた商人から借金をしていました。定信はその借金の一部を帳消しにし、残りも返し方をゆるくしています。ただ、そのあと商人が武士にお金を貸さなくなり、武士の暮らしがかえって苦しくなった面もありました。

3つ目は寛政異学の禁です。幕府の学校である昌平坂学問所で、朱子学以外の儒学を教えることを禁じました。朱子学は、身分の上下や主人と家来の関係を大事にする儒学の一派です。幕府の決まりや身分の秩序を守るのに合っていたので、朱子学を正しい学問とし、幕府の役人を選ぶときも朱子学で選ぶようにしました。禁じたのは幕府の学校の中の話で、このあと新しい学問もさかんになっていきます。

ほかにも定信は、江戸に出てきた農民を村に帰らせたり、出版や暮らしぶりをきびしく取りしまったりしました。

ところが、このきびしさに人々の不満が高まります。定信は6年ほどで老中をやめ、改革は長く続きませんでした。幕府のお金は持ち直したという見方もありますが、テストでは「きびしすぎて不満が高まり、長く続かなかった」と書ければ十分です。

2外国船の接近 ロシアの使節ラクスマンが根室へ

定信が改革を進めていたころ、日本の北の海にはロシアの船がやってきます。1792年、ロシアの使節ラクスマンが、蝦夷地の根室に来ました。蝦夷地はアイヌの人々が暮らしていた土地で、今の北海道です。根室はその東のはしにあり、今の北海道根室市にあたります。

ラクスマンは、漂流してロシアにいた大黒屋光太夫たちを、日本に送り届けにきました。それといっしょに求めたのが通商、つまり貿易です。

幕府は通商を断り、話をしたいなら長崎、今の長崎県に来るようにと、長崎に入る許可証だけを渡しました。幕府がオランダや清と貿易をしていたのが長崎だったからです。その後、ロシアの使節レザノフがこの許可証を持って長崎に来ましたが、幕府はこのときも通商を断っています。

日本に近づいてきたのは、ロシアの船だけではありません。イギリスの軍艦が長崎の港に入りこみ、水や食料を出させて去っていくフェートン号事件も起きました。こうして幕府は、外国船への警戒を強めていきます。

3幕府の対応 伊能忠敬・間宮林蔵の北の調査と異国船打払令(1825年)

外国船の接近に対して、幕府の対応は大きく2つに分かれます。北の土地を調べることと、外国船を追い払うことです。

調べるほうの1人目が伊能忠敬です。もとは商人で、50歳を過ぎてから江戸で天文学や測量を学びました。幕府の許可を得て蝦夷地の測量から始め、やがて幕府の仕事として全国を測っていきます。忠敬たちは17年かけて、日本じゅうの海岸を歩いて測りました。

この測量をもとに、とても正確な日本地図がつくられます。大日本沿海輿地全図、伊能図とも呼ばれる地図です。ただ、地図ができあがる前に忠敬は亡くなっていて、仕上げたのは弟子たちでした。

2人目が間宮林蔵です。幕府の命令で、蝦夷地のさらに北にある樺太、今のサハリンを調べました。当時は、樺太が島なのか大陸とつながっているのか、世界の地図でもわかっていませんでした。林蔵は、樺太と大陸のあいだに海峡があること、つまり樺太が島であることを確かめます。現地の人たちの舟で海峡を渡り、大陸まで行きました。この海峡が、のちに間宮海峡とよばれます。

もう一つの対応が、追い払うほうです。外国船が近づくことが続いたため、幕府は1825年に異国船打払令を出しました。清とオランダ以外の外国船が近づいたら、ためらわずに打ち払え、という命令です。打ち払うとは、大砲を撃って追い払うことでした。

清とオランダは、長崎で幕府と貿易をしていた国です。だから、この2つの国だけは別にしました。外国との行き来を制限するしくみ、いわゆる鎖国を守ろうとしたのです。このきびしい方針は、あとで変わることになります。

まとめ 「内」と「外」の2本の線で整理する

国の中と海の外では、それぞれ別の流れが進んでいました。2本の線に分けると、こうなります。

内(国内): 天明のききん・打ちこわし → 田沼の政治が終わる → 1787年 松平定信が老中になり、寛政の改革を始める → 囲米・棄捐令・寛政異学の禁 → 不満が高まり、6年ほどで定信が老中をやめる

外(海の外): ロシアの使節ラクスマンが根室に来て通商を求める → 幕府は断る → 伊能忠敬が全国の海岸を測量し、間宮林蔵が樺太は島だと確かめる → 1825年 異国船打払令

内では倹約と引きしめで立て直しをはかり、外では北を調べながら外国船を追い払おうとしました。幕府は、内と外の両方に問題をかかえ始めていたのです。

年表

年

出来事

ポイント

1787年

松平定信が老中になり、寛政の改革を始める

内(改革)

1825年

清とオランダ以外の外国船を打ち払うよう命じる(異国船打払令)

外(対応)

用語のまとめ

用語

種類

意味

松平定信

人物

寛政の改革を行った老中。8代将軍吉宗の孫で、白河藩(今の福島県白河市)の藩主

老中

役職

将軍のもとで幕府の政治を動かす、いちばん上の役職

寛政の改革

改革

1787年から松平定信が行った幕府の立て直し。享保の改革を手本に、倹約をすすめた

倹約

方針

むだづかいをやめて、お金や物を節約すること

囲米

政策

ききんに備えて、大名や村などに米をたくわえさせたこと

旗本・御家人

身分

将軍に直接仕える家臣

棄捐令

法令

旗本・御家人の借金を一部帳消しにし、残りの返し方をゆるくした命令

朱子学

学問

身分の上下や主人と家来の関係を大事にする儒学の一派。幕府が正しい学問とした

寛政異学の禁

政策

幕府の学校(昌平坂学問所)で、朱子学以外の儒学を教えることを禁じたこと

ラクスマン

人物

根室に来て、漂流民を送り届けるとともに通商を求めたロシアの使節

蝦夷地

土地

アイヌの人々が暮らしていた土地。今の北海道

通商

ことがら

国と国との貿易

伊能忠敬

人物

全国の海岸を測量し、正確な日本地図のもとをつくった人。地図は死後に弟子たちが仕上げた

間宮林蔵

人物

幕府の命令で樺太を調べ、樺太が島であることを確かめた人

樺太

土地

蝦夷地の北にある細長い島。今のサハリン

異国船打払令

法令

1825年、清とオランダ以外の外国船を打ち払う(追い払う)よう命じた法令

よくある間違い

寛政の改革の中心は、老中の松平定信です。 享保の改革は将軍の吉宗が自分で進めましたが、寛政の改革を進めたのは老中でした。答案では「老中の松平定信」と役職ごと書くと正確です。

寛政異学の禁は、幕府の学校の中での話です。 答えるときは「幕府の学校で、朱子学以外の儒学を教えることを禁じた」と、場所と中身をセットで書きます。

棄捐令で帳消しにしたのは、借金の一部です。 残りの借金は、返し方をゆるくして返させました。答案では「一部」の2文字まで書きます。

伊能忠敬と間宮林蔵は、したことで見分けます。 伊能忠敬は全国の海岸を測量して日本地図のもとをつくった人、間宮林蔵は樺太が島であることを確かめた人です。人物と業績の組み合わせがそのまま問われます。

伊能図を仕上げたのは、忠敬の弟子たちです。 忠敬は地図ができあがる前に亡くなりました。「伊能忠敬の測量をもとにつくられた地図」と書けば正確です。

ラクスマンが求めたのは、通商(貿易)です。 漂流民を送り届けるとともに、ロシアとの貿易を求めました。幕府はそれを断り、長崎に入る許可証だけを渡しています。

異国船打払令には「清とオランダ以外」という条件がつきます。 長崎で貿易をしていた2つの国は、打ち払う相手から外されていました。この条件までが法令の中身です。

寛政の改革の結果は「長く続かなかった」で答えます。 きびしさに不満が高まり、定信は6年ほどで老中をやめました。ただし、幕府のお金は持ち直したという見方もあります。

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このテーマの単語テストと問題集は、下のボタンからダウンロードできます。どちらも答えと解説がついています。

改革の中身と外国船への対応をざっと確かめたいときはアニメーション編を見てください。定信が朱子学を選んだ理由や、清とオランダが別あつかいになった理由まで知りたいときは、詳細解説編の動画がおすすめです。

重要語句 松平定信、寛政異学の禁、棄捐令、ラクスマン、異国船打払令

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