解説
ききんと打ちこわしで世の中が荒れたあと、老中の松平定信が幕府の立て直しにのり出します。ところが同じころ、北の海からロシアの船が近づいてきました。国の中の問題と、海の外から来た問題。幕府はこの2つに、それぞれちがう手を打っていきます。
改革の前の世の中 天明のききんと打ちこわし
前の時代に政治を動かしていたのは、商業の力を使おうとした老中の田沼意次でした。そのころ天明のききんが続き、食べ物がひどく足りなくなります。村では百姓一揆が、町では打ちこわしが広がりました。どちらも、苦しくなった人々が集まって起こした行動です。
やがて江戸、今の東京でも大きな打ちこわしが起こり、田沼の政治は終わりました。幕府はお金が苦しく、人々の暮らしも苦しい。この立て直しをまかされたのが松平定信です。
1寛政の改革(1787年・老中 松平定信) 倹約・囲米・棄捐令・寛政異学の禁
1787年、松平定信が老中になり、幕府の立て直しを始めました。これが1787年の寛政の改革です。老中は、将軍のもとで幕府の政治を動かすいちばん上の役職でした。8代将軍吉宗が自分で進めた享保の改革とちがい、寛政の改革の中心は将軍ではなく老中の松平定信です。江戸時代の三大改革(享保・寛政・天保)では2つ目にあたります。
定信は白河藩、今の福島県白河市の藩主で、吉宗の孫にあたる人でした。そこで、おじいさんの吉宗が進めた享保の改革を手本にします。田沼が商業の力を使ったのに対して、定信がまず求めたのは倹約、つまりむだづかいをやめて節約することでした。農業を大事にする、昔ながらの政治に戻したわけです。
定信が打った手のうち、テストによく出るのは次の3つです。
1つ目は囲米です。天明のききんで大勢の人が苦しんだので、次のききんに備えて、大名や村などに米をたくわえさせました。町にもたくわえをさせています。
2つ目は棄捐令です。旗本・御家人、つまり将軍に直接仕える家臣たちは、暮らしが苦しく、お金を貸していた商人から借金をしていました。定信はその借金の一部を帳消しにし、残りも返し方をゆるくしています。ただ、そのあと商人が武士にお金を貸さなくなり、武士の暮らしがかえって苦しくなった面もありました。
3つ目は寛政異学の禁です。幕府の学校である昌平坂学問所で、朱子学以外の儒学を教えることを禁じました。朱子学は、身分の上下や主人と家来の関係を大事にする儒学の一派です。幕府の決まりや身分の秩序を守るのに合っていたので、朱子学を正しい学問とし、幕府の役人を選ぶときも朱子学で選ぶようにしました。禁じたのは幕府の学校の中の話で、このあと新しい学問もさかんになっていきます。
ほかにも定信は、江戸に出てきた農民を村に帰らせたり、出版や暮らしぶりをきびしく取りしまったりしました。
ところが、このきびしさに人々の不満が高まります。定信は6年ほどで老中をやめ、改革は長く続きませんでした。幕府のお金は持ち直したという見方もありますが、テストでは「きびしすぎて不満が高まり、長く続かなかった」と書ければ十分です。
2外国船の接近 ロシアの使節ラクスマンが根室へ
定信が改革を進めていたころ、日本の北の海にはロシアの船がやってきます。1792年、ロシアの使節ラクスマンが、蝦夷地の根室に来ました。蝦夷地はアイヌの人々が暮らしていた土地で、今の北海道です。根室はその東のはしにあり、今の北海道根室市にあたります。
ラクスマンは、漂流してロシアにいた大黒屋光太夫たちを、日本に送り届けにきました。それといっしょに求めたのが通商、つまり貿易です。
幕府は通商を断り、話をしたいなら長崎、今の長崎県に来るようにと、長崎に入る許可証だけを渡しました。幕府がオランダや清と貿易をしていたのが長崎だったからです。その後、ロシアの使節レザノフがこの許可証を持って長崎に来ましたが、幕府はこのときも通商を断っています。
日本に近づいてきたのは、ロシアの船だけではありません。イギリスの軍艦が長崎の港に入りこみ、水や食料を出させて去っていくフェートン号事件も起きました。こうして幕府は、外国船への警戒を強めていきます。
3幕府の対応 伊能忠敬・間宮林蔵の北の調査と異国船打払令(1825年)
外国船の接近に対して、幕府の対応は大きく2つに分かれます。北の土地を調べることと、外国船を追い払うことです。
調べるほうの1人目が伊能忠敬です。もとは商人で、50歳を過ぎてから江戸で天文学や測量を学びました。幕府の許可を得て蝦夷地の測量から始め、やがて幕府の仕事として全国を測っていきます。忠敬たちは17年かけて、日本じゅうの海岸を歩いて測りました。
この測量をもとに、とても正確な日本地図がつくられます。大日本沿海輿地全図、伊能図とも呼ばれる地図です。ただ、地図ができあがる前に忠敬は亡くなっていて、仕上げたのは弟子たちでした。
2人目が間宮林蔵です。幕府の命令で、蝦夷地のさらに北にある樺太、今のサハリンを調べました。当時は、樺太が島なのか大陸とつながっているのか、世界の地図でもわかっていませんでした。林蔵は、樺太と大陸のあいだに海峡があること、つまり樺太が島であることを確かめます。現地の人たちの舟で海峡を渡り、大陸まで行きました。この海峡が、のちに間宮海峡とよばれます。
もう一つの対応が、追い払うほうです。外国船が近づくことが続いたため、幕府は1825年に異国船打払令を出しました。清とオランダ以外の外国船が近づいたら、ためらわずに打ち払え、という命令です。打ち払うとは、大砲を撃って追い払うことでした。
清とオランダは、長崎で幕府と貿易をしていた国です。だから、この2つの国だけは別にしました。外国との行き来を制限するしくみ、いわゆる鎖国を守ろうとしたのです。このきびしい方針は、あとで変わることになります。
まとめ 「内」と「外」の2本の線で整理する
国の中と海の外では、それぞれ別の流れが進んでいました。2本の線に分けると、こうなります。
内(国内): 天明のききん・打ちこわし → 田沼の政治が終わる → 1787年 松平定信が老中になり、寛政の改革を始める → 囲米・棄捐令・寛政異学の禁 → 不満が高まり、6年ほどで定信が老中をやめる
外(海の外): ロシアの使節ラクスマンが根室に来て通商を求める → 幕府は断る → 伊能忠敬が全国の海岸を測量し、間宮林蔵が樺太は島だと確かめる → 1825年 異国船打払令
内では倹約と引きしめで立て直しをはかり、外では北を調べながら外国船を追い払おうとしました。幕府は、内と外の両方に問題をかかえ始めていたのです。
年表
年 | 出来事 | ポイント |
|---|---|---|
1787年 | 松平定信が老中になり、寛政の改革を始める | 内(改革) |
1825年 | 清とオランダ以外の外国船を打ち払うよう命じる(異国船打払令) | 外(対応) |
用語のまとめ
用語 | 種類 | 意味 |
|---|---|---|
松平定信 | 人物 | 寛政の改革を行った老中。8代将軍吉宗の孫で、白河藩(今の福島県白河市)の藩主 |
老中 | 役職 | 将軍のもとで幕府の政治を動かす、いちばん上の役職 |
寛政の改革 | 改革 | 1787年から松平定信が行った幕府の立て直し。享保の改革を手本に、倹約をすすめた |
倹約 | 方針 | むだづかいをやめて、お金や物を節約すること |
囲米 | 政策 | ききんに備えて、大名や村などに米をたくわえさせたこと |
旗本・御家人 | 身分 | 将軍に直接仕える家臣 |
棄捐令 | 法令 | 旗本・御家人の借金を一部帳消しにし、残りの返し方をゆるくした命令 |
朱子学 | 学問 | 身分の上下や主人と家来の関係を大事にする儒学の一派。幕府が正しい学問とした |
寛政異学の禁 | 政策 | 幕府の学校(昌平坂学問所)で、朱子学以外の儒学を教えることを禁じたこと |
ラクスマン | 人物 | 根室に来て、漂流民を送り届けるとともに通商を求めたロシアの使節 |
蝦夷地 | 土地 | アイヌの人々が暮らしていた土地。今の北海道 |
通商 | ことがら | 国と国との貿易 |
伊能忠敬 | 人物 | 全国の海岸を測量し、正確な日本地図のもとをつくった人。地図は死後に弟子たちが仕上げた |
間宮林蔵 | 人物 | 幕府の命令で樺太を調べ、樺太が島であることを確かめた人 |
樺太 | 土地 | 蝦夷地の北にある細長い島。今のサハリン |
異国船打払令 | 法令 | 1825年、清とオランダ以外の外国船を打ち払う(追い払う)よう命じた法令 |
よくある間違い
寛政の改革の中心は、老中の松平定信です。 享保の改革は将軍の吉宗が自分で進めましたが、寛政の改革を進めたのは老中でした。答案では「老中の松平定信」と役職ごと書くと正確です。
寛政異学の禁は、幕府の学校の中での話です。 答えるときは「幕府の学校で、朱子学以外の儒学を教えることを禁じた」と、場所と中身をセットで書きます。
棄捐令で帳消しにしたのは、借金の一部です。 残りの借金は、返し方をゆるくして返させました。答案では「一部」の2文字まで書きます。
伊能忠敬と間宮林蔵は、したことで見分けます。 伊能忠敬は全国の海岸を測量して日本地図のもとをつくった人、間宮林蔵は樺太が島であることを確かめた人です。人物と業績の組み合わせがそのまま問われます。
伊能図を仕上げたのは、忠敬の弟子たちです。 忠敬は地図ができあがる前に亡くなりました。「伊能忠敬の測量をもとにつくられた地図」と書けば正確です。
ラクスマンが求めたのは、通商(貿易)です。 漂流民を送り届けるとともに、ロシアとの貿易を求めました。幕府はそれを断り、長崎に入る許可証だけを渡しています。
異国船打払令には「清とオランダ以外」という条件がつきます。 長崎で貿易をしていた2つの国は、打ち払う相手から外されていました。この条件までが法令の中身です。
寛政の改革の結果は「長く続かなかった」で答えます。 きびしさに不満が高まり、定信は6年ほどで老中をやめました。ただし、幕府のお金は持ち直したという見方もあります。
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改革の中身と外国船への対応をざっと確かめたいときはアニメーション編を見てください。定信が朱子学を選んだ理由や、清とオランダが別あつかいになった理由まで知りたいときは、詳細解説編の動画がおすすめです。
重要語句 松平定信、寛政異学の禁、棄捐令、ラクスマン、異国船打払令